♪バッハ・カンタータ日記 〜カンタータのある生活〜

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zoom RSS 最後の旅・真の人にして・・・・ 〜五旬節(BWV127、159)その1

<<   作成日時 : 2007/02/14 09:26   >>

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 今度の日曜日、2月18日は、いよいよ五旬節。(エストミヒ = わたしのとりでに)
 カンタータの最高傑作、(とわたしが信じて疑わない)
 BWV127BWV159
 の2曲が登場です。

 エストミヒの後は、四旬節(レント)に入り、聖金曜日まで、華美な音楽の演奏が禁止されます。
(闇の中で燦然と輝く希望、「あけの明星」の受胎告知の祝日だけは除かれます)
 聖金曜日には、受難曲が演奏されるので、もちろん聖金曜日のためカンタータは存在しません。
 エストミヒは受難に直結する日なので、
 エストミヒのカンタータは、全カンタータの中でも特に、内容的に受難そのものと深く結びつくことになります。
(もっとも、すべてのカンタータは受難に何らかの形で関係している、と言ってよいのですが)


 福音書章句は、イエスのエルサレムへの最後の旅。

 もちろんイエスは、そこで何が待っているのか、自分に何が起こるのか、知っています。
 弟子たちにそれを説明しますが、弟子たちは誰一人、その意味を理解することができません。

 ですから、旅は、表向き平静なものです。
 イエスたちの行列は、一歩一歩エルサレムへと進み、
 群集からは、救いを求める声、憐れみを求める声がおこります。


 わたしにとって、この場面は、イエスの物語の中で、最も心を打つ場面です。

 BWV127のタイトルは、「真の人にして神、主イエスキリストよ」

 十字架上で、「なぜ、私を見捨てるのですか」と言ったことからもわかるように、イエスには人としての側面があります。
(受難曲でも、それまで必ずイエスの言葉とともにあった、神の象徴である神々しい弦の光背が、この部分では取り除かれます)
 もしイエスが人でもあるならば、イエスにとってこの旅はどのようなものであったか、
 人としてのイエスは、どのような思いでこの旅を続けたのか、
 それを考える時、この物語は、
(信仰心に縁の無いわたしにとって)
 受難そのものよりも、胸に迫るものがあるのです。


▽ クリックすると、全体を見ることができます。
  さらに、拡大すると、かなり細部までごらんになれます。
 (以前アップした巨大画像のリサイクルです)
  これは、洗礼者ヨハネの絵ですが、ラ・トゥール?が伝えようとしたことは、
  この記事の内容にも合っているように思います。

 
画像



 このエストミヒは、さらに付け加えと、
 該当する書簡章句もまた特別です。

 「たとえ何を持っていようと、愛が無ければ無に等しい。」
 この有名な言葉に始まり、
 「(愛は)すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 愛は決して滅びない」と続き、
 「だから、信仰と、希望と、愛。この3つは最後まで残る。
 その中で最も大いなるものは愛である」
 と結ばれる部分。

 聖書の中でも最も多く引用されるであろう部分。
 信仰や人種を超えて、誰もが共感できる、最も大切な部分です。


 さて、そんなエストミヒですが、
 バッハも気合が入ったのでしょう。
 これ以上はもう考えられないような、すばらしいカンタータを用意してくれました。

 BWV127 「真の人にして神、主イエス・キリストよ」

 BWV159 「見よ、我らはエルサレムに上る」

 BWV127は、コラール・カンタータ(第2年巻)、
 BWV159は、4年目、マタイの年、
 それぞれの年代を代表するような、名曲中の名曲です。 

 コラール・カンタータの年からマタイの年にかけては、バッハの創作の絶頂期と言ってもいいですから、
 それぞれの時期を代表するこの2曲は、そのまま、バッハの全生涯を代表するような曲、といっても過言ではないと思います。

 今回は、めずらしくわたしも気合が入ってます。
 作品の詳細についても、特に、BWV127について、細かく書いてみたいと思います。
 でも、長くなったので、
 つづく。



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>もしイエスが人でもあるならば、イエスにとってこの旅はどのようなものであったか、
人としてのイエスは、どのような思いでこの旅を続けたのか、それを考える時、この物語は,(信仰心に縁の無いわたしにとって)受難そのものよりも、胸に迫るものがあるのです。

イエスにだけ知らされている「真実」の重さ、苛烈さ、深さに胸を突かれる想いがいたします。

これだけキリストに深い想いと共感を寄せられるNoraさん、ブログにお邪魔したばかりの頃は、てっきり信仰をお持ちなのだとばかり思っておりました。キリストと向かい合われるその姿勢は、とても謙虚でいらして、私など恥ずかしい限りです。
魂を空っぽにして聴かれるからこそ、バッハの音楽が生きたキリストの言葉としてNoraさんに響いてくるのでしょうね。

キリストの人間としての側面・・・
時はレント。
ともすれば神格化してみてしまうことの多い、私たち自称「クリスチャン」にとって忘れてはならない「人間キリスト」について思いを深くしたいと感じました。
aosta
2007/02/22 10:39
ごめんなさいNoraさん。
まず最初に私のブログにおいで下さいましたことのお礼を申し上げなければなりませんでしたのに。
前後いたしましたが、コメントありがとうございました。

ラトゥールの「洗礼者ヨハネ」
初めてじっくり見たのは今回が初めてです。
皮の衣をまとい、イナゴと、野の蜜を食べていたという、男性的なヨハネのイメージとは程遠い作品ですね。
むしろ華奢といってもよい肩の線、すべらかに流れる髪。
しかしその表情は深い悲しみと憂いに満ちています。
彼が与える青草を静かにはむ子羊・・・
神が与えたもうた、『生贄の子羊』としての運命を自ら受け入れそれに従おうと歩むキリスト・・・
ヨハネはキリストの進む道を整えるものとして、ただ独りイエスの運命を知っていた人間だったのでしょう。

ラ・トゥールが伝えようとしたこと。
バッハが伝えようとしたこと。
「(愛は)すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない」という真理だったのか、とも思います。
aosta
2007/02/22 11:02
 こんにちは。
 aostaさんはそうおっしゃてくださいますが、実はこれはたいへんな問題で、「こいつ、何もわかってないな」と言われてもしかたないようなことを、あえて堂々と書かせていただいてます。(笑)
 まったく冷や汗もの。
 この回にわたしが書いたことは、かなり偏った視点から捉えた一側面にすぎず、自分で責任が持てるこのようなブログだからこそ、です。
 これは、わたしが、ルイス博士よりも、トールキン博士の方に深く共感し、このブログでもしつこく取り上げていることとも関連するのですが、カンタータの根幹にかかわるテーマでもあるので、またいつか、ゆっくりと。
(そう言えば、ルイスを記事に取り上げてらっしゃいましたね。
 もちろん、ルイスも大好きです。念のため)
Nora
2007/02/22 15:39
 あと、この絵ですが、ラ・トゥールの真筆でない可能性も高いようです。もしかしたら、工房作ですらないかも。
 わたしは実際に見ましたが、よくわかりませんでした。(笑)
 ご存知のように、ラ・トゥールは、一言で言うと、何でもない題材の一瞬を切り取って、大きな感動を生み出す天才ですが、この絵の場合、彼にしては、もともとの題材自体がすでに劇的すぎるような気もします。
 ただ、ヨハネのイメージとちがう、というのは、なかなか鋭いかも。
 先ほどの話とも関連しますが、いずれにしても、例えば実際にはキリストをそのものを描いたのだとしても、このような絵になってしまっては、さすがにキリストだとは言いにくいでしょう。
 それほどこの絵は人間的です。
 これも、勝手な空想。
 目立たないと思って、言いたい放題ですね。
 失礼しました。
Nora
2007/02/22 15:57

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