♪バッハ・カンタータ日記 〜カンタータのある生活〜

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zoom RSS 大いなる壁画・コラールカンタータの神髄〜五旬節(BWV127、159)その2

<<   作成日時 : 2007/02/15 00:27   >>

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 前回書いたように、
 五旬節のカンタータ、BWV127159の両曲は、
 受難曲に直結する内容を持つ、カンタータの最高峰といってよい名品だと確信していますが、
 実は、どちらも、それほど知られているとは言えません。

 それでも、BWV159のほうは、数少ないピカンダーがらみの曲のひとつですし、第4曲バスアリアのあまりの美しさから、「知る人ぞ知る作品」といってもよいでしょう。
 このアリアには、それこそ、アリアの王、という称号がふさわしく、
 実際に一度でも聴いていただければ、誰もがその美しさに息を飲むことでしょう。
「お気に入りのアリアその3」参照)

 ところが、もう1曲の、BWV127のほうは、割高に見積もっても、「小規模な佳作」というような扱いしか受けていませんし、
 実際ちょっと聴いただけでは、なかなかこの曲のよさはわからないと思います。

 事実、わたしが初めてこの曲を聴いたときの印象も、
 透明で、とても美しい曲だけど、なんだか地味かな、くらいのものでした。

 ですから、ここでは、BWV127について、何がそんなにすぐれているか、なぜこの曲がバッハの代表曲と言い得るのか、細かく書いてみたいと思います。


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 わたしが、BWV127に、こだわるようになったのは、この曲の作曲時期を知ってからです。

 BWV127が作曲(初演)されたのは、1725年の2月。
 つまりこの曲は、バッハの創作力が最も旺盛だった時期の作品ですが、ただそれだけではなく、前回も書いたように、長い四旬節(レント)をはさんで、実際にヨハネ受難曲(第2稿)と直接対峙し、それを予告する役割を担っていることになるわけです。

 そしてさらに注目すべき点は、この曲が、バッハのコラールカンタータ年巻(第2年巻)の最後を飾る曲だということです。
(厳密にいうと、この後にもう1曲、あの名曲、BWV1があるのですが、これは聖節とは異なる例外的な祝日(マリアのお告げの祝日)のためのものですから、とりあえず考察からはずします。少し、いいかげんですが)

 以前書いたことのくりかえしになりますが、バッハは、カンタータの年巻全体を、ひとつの巨大な作品として意識していたようです。
 特に、第2年巻において、その傾向は顕著です。
 第2年巻は、とびきり優美なフランス風序曲をはじめとする、まったく異なるタイプの冒頭合唱を持った、4つのカンタータによって開始されます。
(しかもご丁寧なことに、各々の合唱のコラール定旋律は、それぞれ4つの異なる声部に振り分けられているそうです)

 そして、しつこいようですが、このコラール・カンタータ年巻は、すべての曲において、音楽についても、歌詞についても、ひとつのコラールを徹底して掘り下げ、あらゆる作曲技法を駆使することによって発展させて、全曲を構成する、という手法がつらぬかれています。
(わたしも最初はかんちがいしてたんですが、最後をコラールで締めくくる曲が、すべて「コラールカンタータ」というわけではないんですね)

 後年、カンタータをほとんど作曲しなくなってからも、あるいは、作曲したとしても、まったく自由な手法によるようになってからも、
 バッハは突然思い出したかのように、「コラール・カンタータ」を作曲していますが、(BWV14140などなど)これはまちがいなく、第2年巻を補完しよう(ひとつの完全な年巻=作品として、完成させよう)という意思のあらわれと考えられます。
「コラール・カンタータについて その2」「バッハの最後のカンタータは?その1」参照)


 さて、そんな生涯最大の作品、ある意味音楽史上空前の大作というべき第2年巻の大トリを飾り、さらにはあのヨハネ受難曲を導くカンタータとして、わたしのイメージにあるBWV127は、どうしてもそぐわない気がしたのが、そもそもの始まりでした。

 それで、この曲を何回も聴きなおし、いろいろな資料なども調べていくうちに、「地味な佳作」だなんてとんでもない、実はこの曲こそ、「コラールカンタータ」が最後にゆきついた、極限極美の姿なのではないか、と言う思いが、どんどんふくらんでいった、というわけです。


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 それでは、曲を細かく見ていきましょう。

 このカンタータの場合、冒頭合唱こそが、全曲の核心だと思いますが、
 これはなかなか一筋縄にはいかない音楽です。
 
 まず、曲の冒頭、
 さわやかなリズムにのって、器楽がやさしい動機をくりかえしますが、
 実は、これがもうすでに、「神の子羊」なのです。
 マタイの冒頭合唱で、天から降ってくるコラール。

 わたしなど、これだけでもう、ぐっときてしまいますが、
 その後、さらに驚くべきことがおこります。
 「神の子羊」のメロディーがヴァイオリンからオーボエへとひきつがれる瞬間、
 空白が生じ、ふっとカゲがさしたようになりますが、その時の通奏低音に注意してみてください。
 わたしはこれに気づいたとき、涙があふれ出てとまらなくなりました。
 これが、「コラールカンタータ」の真髄なのです!
 
 わたしが聴いて涙を流したものの正体。
 それは、コラール「血潮したたる」です。
 「神の子羊」に続いて、あの、マタイを一度でも聴いたことのある者なら、忘れたくても忘れることのできないマタイの中核コラールが、通奏低音によって、ほとんど全曲にわたり、くりかえし奏されつづけて、この曲に陰影を与えているのです。

 BWV159でも、第2曲、流れるように美しいアルトアリアの途中で、突然上空にこのコラールがあらわれます。
(こちらはソプラノではっきりと歌われます)
 これも十分効果的ですが、
 BWV127のほうが、明るい曲調の背後に隠されている分、それが聞こえてしまった時の衝撃は、もうはかりしれません。


 あとひとつだけ、わかりやすい例として、
 さきほどさらっと書いた、冒頭のリズム、光がきらめいているかのような、bfの装飾音もあげておきましょう。
 実はこれ自体も、このカンタータ本来のコラール「真の人にして」(低旋律はジュネーブ詩編歌127番)の縮小型であり、それと同時に、バッハが多用した代表的な修辞定型(象徴音型)のひとつ、「鞭打ち音型」でもあります。
 これも、全曲にわたり続きます。
 
 わたしが心から信頼するある方が、これは十字架音型の一種ではないか、とも指摘されました。
 そうなると、全曲にわたって、もう数えきれないほどの、きらきらと光りきらめくような十字架がちちりばめられていることになります。


 以上はほんの一例にすぎませんが、他にも数えきれないほどの受難を象徴することがらが、曲の中にちりばめられています。
(おそらく未だに、そのすべては指摘されつくしていないのではないでしょうか。)

 そして、(この点が重要なのだと思いますが、)なぜそれらのことがらが受難を象徴していると断言できるかというと、それらのもとになっている素材が、すべて、何から何まで徹底して、受難、あるいはそれに関連するコラールまたは聖歌だからに他ありません。
 バッハは、いくつものコラールを、時にはそのままのかたちで、時には切りきざみ、あるいは延ばしたり縮めたりして、それらの材料だけを積み重ねることによって全曲を構成しているのです。

 コラールは、長い年月歌い継がれて、それ自体が意味を持っています。
 コラールという、音楽でもない、歌詞でもない第三の言語?によって構成されているがゆえに、わたしたちは、この冒頭合唱が、当該聖句の記事である、受難の待ち受けるエルサレムへと向かう主イエスキリストの旅、さらにはその先にある受難と復活、それによってもたらされる救いそのものをも描きつくした、壮大なものであることを知ることになります。
(実際の歌詞には、そのような具体的なことは表現されていないにもかかわらず、です)


 もちろんこの冒頭合唱は、音楽自体すでに、すぐれた対位法作品です。
(二つのコラールによる二重フーガ(カノン?)に、さらにいくつものメロディーがかさなるという形式)

 しかし、その音楽は、全体がコラールによってつくりあげられていることから、単なる音楽作品でない、明確なテーマを有する、見上げるばかりに巨大な壁画、とでもいうべきものに変貌しているのです。
 しかも、細部に目を転じれば、この壁画は精巧な工芸作品のような繊細さをあわせもっている。


 さらに特筆すべき点は、
 これらのコラールによる象徴等は、明るく平静な、まるで雪どけの野原を思わせるように清々しい曲調(例によって今の季節にぴったりです)の背後に、実に巧妙に隠されている、ということです。

 曲をちょっと知っている方が、曲調そのままの明るい演奏を聴いて、
「この音楽はもっと深刻なものだ」
「鞭打ちを、なぜもっと鞭打ちらしく表現しないのか」
 などと論評していることがあります。
 でも、わたし個人としては、この曲の演奏は、明るければ明るいほどよいのではないか、と思っています。
 なぜなら、当日の聖句に、この旅のゆきつく先を知っているのは主イエスキリストだけであり、弟子たちは、
「何も理解していなかった」とあるからです。
 表面上、旅はきわめて平明なものなのです。
 だからこそ、この曲におけるコラールの意味がわかった時の、衝撃、感動がより大きく、深いものになる。
 イエスが「神」であるがゆえに、これまでほとんど誰も触れようとはしなかった、
 イエスの「人としての」気持ちが、痛切に胸に迫ってくる。

 曲が、明るければ明るいだけ、美しければ美しいだけ、象徴等の一つ一つの意味が、胸に迫ってくる。

 前述のわたしが信頼する方が、この曲を聴いて、その明るさを、直感的に「天気雨の時の不思議な明るさ」と表現されました。

 まったく、驚嘆すべき作品、といってよいと思います。


 わたしは、この曲に出会って初めて、それまで漠然としていた「コラール・カンタータ」というものが、少しだけわかったような気がしました。
 他の曲についても、細かく見てゆくと、このようなことがあるのかと思うと、ホントに途方にくれてしまいます。


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 当時、聖金曜日には、「受難曲パスティッチョ」を編纂し、演奏することが流行していました。
 これは、有名な作曲家の受難曲のいいとこ取り、ベスト版のようなものです。

 記録によると、
 バッハも、最晩年に、テレマンのものや自作をもとに、パスティッチョを編纂し、演奏していますが、ここに、なんとこのBWV127の冒頭合唱が含まれています。

 この事実は、この冒頭合唱が、バッハの失われた受難曲に転用されていた可能性を示唆するものであり、例えそうでなくても、バッハ自身この曲を受難に係わる曲として大切に考えていたことを裏付けるものと言えます。
 いずれにしても、この曲の重要性の根拠になると思いますので、ここに付け加えておきます。



 また、この日のカンタータには、他に、BWV2223があります。
 これらの曲は、トマスカントルの採用試験用に作曲されたもので、ちがう意味で、バッハの勝負作であり、もちろん、名作です。
 一般的には、こちらの方が知られていますが、もうこれ以上書けませんので、またの機会に。


 なお、BWV127の演奏については、次回に書きたいと思っています。
 と、いうわけで、
 さらに、つづく。



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