♪バッハ・カンタータ日記 〜カンタータのある生活〜

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zoom RSS 第3の男、ライプツィヒに赴任する〜たまには曲目解説(BWV22、23)【五旬節】

<<   作成日時 : 2009/02/21 23:11   >>

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 2月22日(日)、いよいよ五旬節(エストミヒ)。
 カンタータの大山脈の最高峰、BWV127159、の登場です。

 ここ4、5年、同じことを繰り返しているような気がしますが、しかたありません。

 膨大なカンタータの中から1曲だけ選べ、と言われたら、即座に、ムリです、と答えますが、
 どうしても選ばなければならないとしたら、
 BWV127159か、1週間くらい悩んだあげく、結局決められず、しかたなくBWV1BWV82にする・・・・?
 なんだかわかりませんが、とにかくそれくらいすごい!


 BWV127は、BWV1とともに、偉大なコラール・カンタータ年巻(第2年巻)の最後を飾る、その到達点とも言える作品、長いレントをはさみ、直接ヨハネ受難曲(第2稿)と対峙します。

 一方、BWV159は、BWV82などと同様に、何物にもとらわれない自在の境地で作曲された名品、バッハのまとまったカンタータ創作のほとんど最後を飾る作品で、やはり受難曲と深く結びついています。

 以上のように、両曲とも受難曲の予告編的な意味合いを持つため、受難コラール「血潮したたる」が、重要なモチーフとなっています。
 BWV159においては、誰にでもわかる形で、あからさまに登場しますが、
 BWV127においては、平明な明るさの中に、巧妙に隠されています。


 ・・・・
 あぶなく、またズラズラと書いてしまうところでした。
 この2曲、特に、BWV127については、これまで書き尽くしてきたので、もうくりかえすのはやめましょう。

 興味のある方、これから聴いてみよう、という方は、ぜひ、以下の過去記事をぜひごらんになってください。

  
 五旬節の記事

      最後の旅・真の人にして・・・・ 〜五旬節(BWV127、159)その1
      大いなる壁画・コラールカンタータの神髄〜五旬節(BWV127、159)その2
      ガーディナーの挑戦・再び〜五旬節(BWV127、159)その3
      お気に入りのアリアその3(BWV159)〜夕映えのR.シュトラウス
      カンタータの祭典!!マリアの潔めの祝日&五旬節
      雪のエストミヒ


 また、勇気のある方は、カンタータ掲示板(テーマ別)の「記事検索」欄に、「BWV127」(全角文字)を入れて、記事をごらんになってください。
(どちらかというと、古い記事に、くわしく書いています)



 さて、過去記事を見て、ちょっと驚いたのですが、
 なんと、BWV2223について、まったく触れていません。

 この2曲はわりとよく知られた作品ですが、ふつうだったら、きちんとご紹介してもおかしくない特別な魅力を持った作品ですので、
 今日は、この2曲について、簡単に書いておきます。



 カンタータ第22番 「イエス、12弟子を呼び寄せて」 BWV22

 カンタータ第23番 「真の神にしてダビデの子よ」 BWV23



 この2曲、一応は五旬節のカンタータですが、実は、一般のカンタータとは決定的に異なる性格を有しています。
 というのも、ライプツィヒのトマスカントルの採用試験用作品として、バッハが提出したのが、この2曲だったのです。

 従って、この2曲は、ライプツィヒで演奏されたものではありますが、ケーテン時代に作曲されためずらしい教会カンタータであり、ケーテンならではの生き生きとした息吹を、そこから感じ取ることができます。

 実際、バッハは、試験用の作品ということで、そのケーテン的な面も含め、自分の作曲技術の幅広さをくまなく投影しようとしたのでしょう。
 この2曲には、さまざまな音楽的要素が集約されていて、実にバラエティに富んでいる。
 しかも、試験作品の制約からか、この後に続く実質的なトマスカントルデビュー作、BWV7576のように、気合が入りすぎて妙に冗長になることなく、コンパクトにまとめられていて、正に名作というにふさわしい曲になっているのではないでしょうか。


 第22番

 第1曲、いきなり、当世風な男声デュエットのアリオーソと古風なアカペラ合唱のモテットが混在した楽章が曲を開きます。
  
 この第1曲、そして、第2曲アルト・アリアと、
 悲しげなオーボエが大活躍し、バッハお得意の涙が滴るような曲調が続きますが、

 この後、力強い弦を従えた第3曲バスのレチタティーボが、音楽の雰囲気を一変させます。

 レチタティーヴォの最後に、舞曲の明るいリズムが湧き起こり、
 まぶしいパスピエ舞曲の第4曲テノールアリアを導きます。
 このパスピエなど、正にケーテンの器楽曲そのもの。

 音楽は、この明るい雰囲気のまま、
 柔らかな春風のようなオブリガートを身にまとった終結コラールが、全曲を閉じます。

 このオブリガート付きコラールは、BWV147BWV140の有名なコラールと同様の形態ですが、
 これらの有名曲と比べても、決してひけをとらない美しさ。
 いや、わたしなど、個人的には、この例えようもなくさわやかなBWV22のコラールの方が好きもしれない。
 

 第23番

 第1曲は、初期作品を思わせる、緊張感に満ちた厳粛な内容の音楽。
 しかし、演奏するのは、2本のオーボエと女声デュットで、とても豪華。

 第2曲コラール付きレチタティーヴォの後、

 わきあがる第3曲合唱は、実に明るくほがらか。
 しかも、今度は男声デュエットのパートをはさんでいて、ますます豪華。

 さらに、試験直前になって、バッハはダメ押しのごとく、各節伴奏の異なる終結大合唱を付け加えました。
 しかも、なんと、4本の金管の伴奏つき!
(さすがに思い直したか、後の再演時には削除)

 内容的には、とても真摯なカンタータですが、バッハ先生、あらゆる得意技を投入しようとした?


 以上、音楽的な面だけ、かんたんに見てきましたが、
 さまざまな手法によるコラール処理、
 オペラ的なデュエットなど、「華美な」の要素の多様、
 舞曲形式の多様、
 などなど、その後のライプツィヒ・カンタータにおける特徴が、すでに全開なのがとってもおもしろい。


 1723年2月7日の現地の礼拝で、バッハは、この2曲を自らの指揮で演奏。
(バスパートを自分で歌った?)

 試験の結果は、ご承知のとおり。
 新聞によると、市民の反応は、とてもよく、大絶賛といってもよかったようです。

 ただ、前任のトマスカントル、クーナウの死後、テレマン、グラウプナー他の候補者が次々とダメになっており、
 市当局にとって、バッハは、「第3の男」でした。
(実際には「第4の男」だけど)

 「最高の人物が不可能なのだから、ほどほどの人物でもしかたない」(プラーツ市長)という、やむを得ぬ選択だったようです。

 もう一人の市長(何だかよくわかりませんが、ライプツィヒの市長は3人いたとのこと)、シュテーガーにいたっては、
 「劇場風でない作品をつくってほしいものだ」と、実に先見の明のある?発言をしています。

 ちなみにもうひとりの市長が、あのランゲで、ランゲが生涯にわたってバッハを擁護し続けたのは、ご存知の通り。

 就任の時点で、すでに、多くの有力者が眉をひそめていた、という、なんだかよくある学園ドラマみたいな話。


 いずれにしても、わたしたちのバッハは、トマスカントルとして、ライプツィヒにやってきました。

 バッハが、大好きだったケーテン候のもとを去ったのには、さまざまな理由が推測されています。
 そのどれもが多かれ少なかれあてはまるのでしょう。

 また、最終的にバッハがトマスカントルに選任された裏には、さまざまなややこしい政治的要因もあったわけですが、
 
 結局、バッハは、一部の宮廷内で一部の階級だけを相手にするのではなく、
 もっと広い社会の中で、一般の市民とともに、いっしょに音楽を奏でたかったのではないか、

 と、わたしは思います。

 つまり、今で言う、ライブ感を求めたのではないか、と。

 バッハが最後まで、みんなで歌えるコラールにこだわったこと、
 一部宮廷内だけのものだった、さまざまな音楽的要素、市当局が眉をひそめるいわゆる「華美な要素」を、惜しむことなく教会音楽に盛り込み続けたこと、
 後年、学生オーケストラとの交流を、特に大切にしたこと、
 すべてがそれを示唆しています。
 
 そして今、バッハが求めたライブの輪は、遠く時間と空間を越え、さらには宗教の壁さえも軽々と飛び越えて、現代の極東日本にまで、広がっているのです。



画像




 すばらしいCDがたくさんありますが、
 最近、ヘレヴェッヘによる五旬節カンタータ集がリリースされたことは、すでにお知らせしました

 この演奏、とびっきり美しいことは美しいのですが、おそらく大抵の方は、あまりの何気なさ、平明さに拍子抜けするのではないでしょうか。
 迫力に欠け、常に浮遊しているような感じは、白日夢を思わせる。
 しかし、以前も書いたように、五旬節のカンタータはそれでいいのです。というか、そうでなくてはならないのです。
 この時点で、悲しみのドラマは、まだ表にあらわれていない。
 昔、S君さんがおっしゃったように、五旬節のカンタータは、「狐の嫁入り」、天気雨のカンタータ。
 その演奏が平明であればあるほど、その悲しみは胸に迫る。

 その点、ヘレヴェッヘの演奏は理想的とも言え、おそらくこれは確信犯的なものでしょう。
 その証拠に、BWV127の冒頭楽章など、ちょっと聴くとただ能天気に明るいだけみたいですが、実は、バッハがこの音楽に盛り込んだ実に多くの仕掛けのすべてがはっきりと聞き取れる、稀有の演奏となっています。

 ヘレヴェッヘ、だんだん、突き抜けてきました。
 ちょっと、レオンハルトに似てきたかも。



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コメント(8件)

内 容 ニックネーム/日時
こんばんは。
もしかして今年はきょうからレント?とにかく最近、私的には猛烈に忙しくて(その割によくここを覗いているのは話題が楽しいから、そして私には逃避モード)、つまり時間の経つのが早くて、なんだかついこの間が新年だったような気がしているのです。良くないですよね。毎日の残業があと3時間少なくて、休日の仕事が半分になれば、もっと奏いたり聴いたりできるのに。

バッハは「宮廷の音楽から市民音楽へ」という潮流と「司祭の音楽から平信徒の音楽へ」という潮流の二つを同時に実現したのだと言えるでしょう。昔のカトリックでは多くの信者は「教会にぶら下がっているだけ」でOK、聖書を読んだり讃美を歌ったり、時に応じて祈ったり救いを世に伝えたりするのは、神に献身した一握りの司祭やシスターの仕事でした(ある意味、楽な信仰)。宗教改革により一人一人の信仰が問われ、一人一人が(ドイツ語で)聖書を読み、神を讃美することが求められた時、礼拝音楽も「歌う人」「聴く人」という二分法から、皆で一体となって讃美するライブへと変わる必要がありました。その要請にふさわしい書式で書かれた音楽の最高峰ですね。
かげっち
2009/02/26 00:07
 かげっちさん、こんばんは。
 レントに入って、カンタータの記事を書かなくてすむので、とても開放的な気分になっています。と言っても、ふだんからほとんど書いていませんが。
 それにしても、来週からもう3月とは。びっくりしてしまいますね。すぐに桜が咲き、気がつくと、夏?

 バッハがケーテンを去ったことに関しては、ケーテン候の心変わりとか、社会的地位や金銭的なことなど、実にさまざまな理由があげられていますが、わたしも、かげっちさんがおっしゃっているような、内面的な理由が一番大きかったのではないか、と思っています。
 バッハは形の上では職業作曲家ですが、ベートーヴェンの出現を待つまでも無く、実際的にはすでに、(特に晩年は)限りなく自由な精神を持った作曲家だったと思います。
Nora
2009/02/27 00:26
>つまり、今で言う、ライブ感を求めたのではないか、と。

いいですねぇこういう表現の仕方。
この前後の文章、かなり大胆なことを述べられていると思うのですが、どうなのでしょう。
ちなみに、僕はおなじような角度から、”リプキン方式”(だったかな?(笑))に疑問を持っています。 
たこすけ
2009/02/27 00:44
 たこすけさん、こんにちは。
 正確には、ちょうど上のコメントでかげっちさんが書いてくださったようなことだと思うのですが、めんどうなので、「ライブ感」の一言ですませてしまいました。

> 僕はおなじような角度から、”リプキン方式”(だったかな?(笑))に疑問を持っています。

 この点については、OVPP(=リフキン方式)でも、十分ライブ感は出るんじゃないかと思うんですよ。
 今のロックなどのコンサートでも、舞台の上で演奏するのはわずか数人のメンバーですけれど、何千人もの客が立ち上がって踊ったり、手拍子をしたり、場合によっては歌ったりして一つになりますよね。
 「皆さん、ごいっしょに」というやつですね。(今時そんなのないかな)
 それと同じで、教会の会衆も、知ってるコラールのメロディが出てくれば気持ちが入るでしょうし、終結コラールなどは、各声部に分かれてはムリにしても、旋律のパートはいっしょにうたったかもしれない。
 そう言えば、昔カンタータの掲示板で、最後のコラールは会衆も歌ったのかどうか、という議論をしたような気がします。詳細は忘れましたが。
Nora
2009/02/27 15:19
>旋律のパートはいっしょにうたったかもしれない。
歌っていたように僕も思います。
確信があるわけではなく、ほぼ願望に過ぎないのですが。
歌っていない人間にはバッハのチェックがはいっていたような気が・・・(笑)
Noraさんのコメントに入れていただいた文章を読んで、はたと気がつきました。自分は何を聞きたいと思っていたのか。
要するに、”ライブ盤”でした(笑)。一般的なライブ録音ではなく、観客の息遣いが入っているようなそれ、でした。
最近ツッェペリンのライブ映像ばっか見ているというのにも影響されているかもしれませんが。
たこすけ
2009/02/28 00:31
> 一般的なライブ録音ではなく、観客の息遣いが入っているようなそれ、

 最近は、資金的な問題から、クラシックの新録音は、ほとんどがライブ録音のようですが、クラシックだと、なかなか観客の息遣いが伝わるところまではいかないかもしれないですね。でも、昔のスタジオ録音より、鮮烈な演奏が多くなっているような気がしますが、気のせいでしょうか。

 そう言えば、カンタータにもすごいのがありましたね。例のガーディナーのSDG巡礼ライブ。2000年に世界中を回って全曲録音したという演奏者の姿勢もすごいですし、観客の息遣いも、けっこう捕らえられていると思います。
Nora
2009/03/01 23:12
> はたと気がつきました。自分は何を聞きたいと思っていたのか。
> 要するに、”ライブ盤”でした

そうか、そういうことですね!たこすけさん、Noraさんのおっしゃるように、ライブであるかどうかでなく、ライブ感があるかどうかが私にとっても大事なのだと気づきました。極端に奏者に近い位置にマイクを置くと、音には臨場感が出ますが、演奏空間全体がわからなくなるという意味でライブ感はそこなわれますから。(奏者の前で平伏して聴いているような感じの録音がたまにあります)

歌ってない人間にチェック入れるというのは、カルヴァンだったらやったかも。実際に会衆の一人として歌うと感じますが、人数が多くなるほど、残響の多い会堂ではアインザッツがわからなくなってぐしゃぐしゃになりますから、アタックがはっきりした音色のオルガンが欲しくなります(現代の教会ではピアノとオルガンを併用しているところもあります)。そうなれば、曲の作りも会衆に歌いやすいものが求められるでしょう。バッハはそのあたりも意識していたのでしょうかね。
かげっち
2009/03/02 12:57
 かげっちさん、
 確かに、演奏がどうのこうの以前に、録音の仕方や、再生機械等によって、演奏のイメージががらりと変わることは多いんでしょうね。
 わたしは、ラジカセ(古)に毛がはえたようなので聴いているので、あまり細かくはわかりません。(笑)

> バッハはそのあたりも意識していたのでしょうかね。

 カンタータで会衆が歌えるとしたら、やはり、最後の単純な4声コラールくらいでしょうね。
 バッハは、カンタータを実際に歌った学生の合唱団について、市当局に対し、水準が低すぎると文句ばっかり言っていました。
 それなら、かげっちさんがおっしゃるように、多少は歌いやすくすればいいのに、曲自体は年々ややこしくなり、歌うにくくなる一方。
 まったく困ったものです。(笑)
Nora
2009/03/03 15:40

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