♪バッハ・カンタータ日記 〜カンタータのある生活〜

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zoom RSS 秋の気配漂う野辺に憩う〜究極のブルックナー!超ゆっくり3番初稿と超快速5番【三位一体節後15】

<<   作成日時 : 2014/09/25 10:40   >>

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 今度の日曜日(9月28日、三位一体節後第15日曜日)のカンタータは、

 第1年巻、BWV138
 第2年巻(コラール・カンタータ)、ぞろ目カンタータの名品、BWV99
 後期、ソプラノのソロ・カンタータの有名曲、BWV51、ほか、
 です。


 また、その翌日、9月29日は、大天使ミカエルの祝日、

 カンタータは、

 おそらく第1年巻のBWV50、(断片)
 第2年巻のBWV130
 後期のBWV19、149
 です。


 過去記事は、こちら↓


 <三位一体節後第15日曜>

    風立ちぬ(BWV51、99、138)
    第7のブランデンブルクコンチェルト・E君、再び(BWV99)
    コラールカンタータの諸相(前編)+魅惑のゾロ目カンタータ( BWV99、100)


 <大天使ミカエルの祝日>

    大天使ミカエルの祝日(BWV149他)
    大天使ミカエルの祝日(BWV19他)



 わたしにとって、ブルックナーは9月の作曲家だ。

 忘れもしない、学生時代、東京カテドラル聖マリア大聖堂で初めて朝比奈隆さんのブルックナーを聴いたのが9月だったし、
 やはり学生時代、夏から秋に移り変わる今頃の季節に、ブルックナーの音楽を入れたテープを道連れに、岩手、山形と長い長い旅行をしたことは、今もなお鮮烈に記憶に焼き付いている。
 それ以来、やさしい秋の気配が漂い始めた東北の山々の景色が、空が、風が、緑が、水が、花々が、ブルックナーの音楽に重なり、今も決して離れることはない。
 宇宙の鳴動やアルプスの威容もいいだろう。しかし、わたしがブルックナーの音楽を聴いて一番ひかれるのは、穏やかな野や川の、まったく何気ない自然のささやきみたいなところ。

 そして、不思議なことに、毎年夏から秋にかけては、すばらしいブルックナー演奏との出会いがあって、これまで記事にも書いてきた。
 もうどれだけ、その音楽を聴いてきたかわからないのに、さまざまな演奏家が次々と、それまで聴いたことも無いような、いや、想像したことさえ無かったような、新しいブルックナーの魅力を届けてくれる。

 そして、今年もまた、思いがけない出会いが。



 ブルックナー 交響曲第3番(1873年第1稿) (聖フローリアン修道院の夏季ブルックナー週間、2013年ライブ)

  レミ・バロー指揮、ザンクト・フローリアン・アルトモンテ管弦楽団


画像



 <録音データ:HMV公式HPより>

 第1楽章 [32:35]
 第2楽章 [23:39]
 第3楽章 [07:54]
 第4楽章 [24:55]


 とにかく長い演奏。
 驚くほど残響豊かな教会の堂内で、その残響の中にかき消えることのないよう、ありったけの心を込めて、一つ一つの音、一つ一つのフレーズを大切に響かせ、個々のフレーズが残響の中にきちっと響き終えるのを待ってから、次のフレーズ、また次のフレーズへと進んでゆく。
 まるで、心の旅を楽しむように。
 そうすることによって、自然と演奏時間は破格の長さとなり、その結果、そこには、それまで誰も聴いたことが無かったような、ブルックナーの自由な魂から創出されたままの姿の大交響曲の大演奏が姿を現す・・・・!
 ああ、3番第1稿とは、こんな音楽だったのか、と、今さらのように思い知る。

 これまで何度もしつこく書いてきたように、オルガニスト以前に合唱の人、合唱オタクだったブルックナーの交響曲は、実際彼自身の交響曲に並ぶ重要な作曲ジャンルでもあった「モテット」を、そのまんま「交響曲」と言う枠組みの中にぎっしりと詰め込んだような側面を持っているような気がする。
 そのモテットは、バロック、ルネッサンス、いやそれ以前の中世にまでさかのぼる合唱音楽の偉大なる伝統(それはヨーロッパ音楽の核心でもある)をそのまま引き継ぎながら、それでいて簡素でやさしい愛すべき音楽たちだ。
 ブルックナーの心の音楽、「モテット」が、たくさんつなぎ合わされ、組み合わされている、「アルバム」。あるいは、大好きなものがぎっしりとつまったおもちゃ箱。

 従って、ブルックナーの交響曲においては、そうした「モテット的」なフレーズを(実は、それぞれが「祈り」の音楽でもあるのだが)、単なる音響や情感を構成する部品としてではなく、一つ一つじっくりと心からの歌として歌うことがとても大切で、わたしにはそれが一番重要なことのように思えるのだが、それを最高の形で証明してみせてくれたような演奏。

 物理的には極限をはるかに超えてしまったような長さにもかかわらず、始めから終わりまで、わたしはまったくその長さを感じることが無かった。
 このような長い演奏の場合によく言われる常套句に、「ゆっくりとしたテンポなのに緊張感がまったく途切れない」というのがあるが、実は、必ずしもそういうわけでもない。
 でも、それでいいのだ。
 そもそも、3番初稿のような音楽に緊張感など必要無いような気がする。もともと、そんなに「よくできた」曲ではない。
 この演奏には、緊張感のかわりに、計り知れないほどの愛情があるのだ。すみからすみまで、ブルックナーへの愛で満ちあふれているのだ。
 演奏者は音楽のすべての音を、フレーズを、ただただ慈しんで奏している。聴く者はその中に身も心もどっぷりと浸かってしまえばよい。
 音楽に身を任せていると、得も言われぬ至福の瞬間が、寄せては返す波のように果てしなくくりかえされる。
 そのような幸福な時間を、長いなどと感じることがあるだろうか。


 なお、このアルバムのニュース等には必ず、指揮のレミ・バローがチェリビダッケに指示したことが強調されていたが、わたしが聴いた限り、演奏が長いというあくまでも物理的な特質以外には、何がチェリビダッケの演奏を連想させる要素なのか、よくわからなかった。(もっともわたしはそれほどチェリビダッケの演奏を聴いたことがあるわけではない)


 かつてアバド&ウィーンフィルのアダージョNo.2の演奏の中に見出した「幻の大交響曲」に、長い長い遍歴の末についにたどり着いた。(またか?参照記事、こちら

 それにしても、かつては実際に耳にすることなど夢のまた夢だった、幻の音楽、第3番初稿。

 よくぞこれだけ、それぞれ個性的で魅力的な名盤がそろってくれたものだ。

 一応、主な記事を下にまとめておきます。


 ブルックナーについて、ちょっと考えた(ティントナー盤)

 ブルックナー新稿世界初演シリーズ(内藤彰指揮) (コンサート記事)

 クリスマスとブルックナー〜幻の「アダージョNo.2」(交響曲第3番)を求める旅(インバル盤からヤング盤まで)

 最近聴いたCDから(ノリントン盤)

 山形からブルックナーへ、愛をこめて(飯森範親盤)

 新旧饗宴!(けっして競演でなく)(ブロムシュテット盤)



 ブルックナー 交響曲第5番
 (2013年10月ライブ)

  アーノンクール指揮、コンセルトヘボウ管弦楽団


画像



 <録音データ:HMV公式HPより>

 第1楽章 [20:15]
 第2楽章 [12:30]
 第3楽章 [13:04]
 第4楽章 [21:54]


 打って変わって、とにかく短い演奏。
 それだけではなく、こちらの方は始めから終わりまで息ができないほどの緊張感。
 5番のようにブルックナーにしてはずばぬけてよくできた曲において、この緊張感が大きなプラスに働くことは言うまでもない。
 人間の精神の力によって、すさまじいスピードで一息に築き上げられた、天にも届かんばかりの大建築とでも言ったらいいだろうか。

 もちろん、その颯爽たる疾走感、そして壮大さや力強さだけではない。ここにも、数えきれないほどの美しい瞬間、そして、やさしい微笑みや静謐な詩情、数えきれない祈りが、確かに存在している。
 上で紹介した演奏とは逆で、物理的な時間は短いのだが、そこで次々と繰り広げられる事象の豊かさはちょっと比類が無いほど。
 しかしそれらのすべては風に吹かれるかのように次から次へと過ぎ去り、巨大な渦となって、大きな大きな光の伽藍に溶け込んでゆく。

 この演奏もまた、ヨーロッパの合唱音楽を極めたアーノンクールならではの演奏。
 アーノンクールの演奏というと、どうしてもテンポや表現のことがクローズアップされがちだが、この指揮者の神髄はそんなことではないことを、思い知らされる演奏。


 ところで。
 最後の和音が巨大なホールに鳴り渡った瞬間、アーノンクール、感極まったか、がしっと祈りを捧げるような姿勢をとる。老いて増々元気いっぱいの巨匠の感動的な姿。この姿勢が続いている間はもちろん音楽は終わっておらず、実際、残響も残っていると思われるが、ここで本場海外にもいらっしゃるフライングブラボーおじさんが朗々とした声で「ブラボー」。間の悪いことに、心からの感動をかみしめていたと思われる他の観衆はそれに追随することなく、おじさんの声だけが空疎に響いてしまうことになった。
 このブルーレイ、これだけが、残念。たまらなく残念。


 アーノンクールについては、BSプレミアムで観たベートーヴェンの荘厳ミサ曲(’12年のザルツブルク音楽祭ライブ)、最新盤のモーツァルト交響曲集なども、誰も到達し得ない独自の高みを示すものだった。
 (モーツァルトについては、この曲自体が、わたしにとってそれほどいつも聴くようなものでないので、試聴しただけで、未購入)



 以上、いつものようにちょっとロマンチックに、あまりにも衝撃的だった(=涙が出るほどうれしかった)それぞれの演奏との「出会い」の第一印象を書き綴ってみました。

 どうか、3番と5番、両者の録音データに注目してみてください。これだけ見て、まちがえて逆に貼り付けてるのでは?と思われた方も多いことでしょう。

 このタイムだけ見ると、いずれも尋常でない、ちょっとあり得ない演奏のようですが、実際に聴いてみると、どちらもこれ以上ないくらいに自然に、ブルックナーの美しさ、楽しさ、力強さ、その他ブルックナーならではのさまざまな魅力を表現した演奏になっています。


 2枚とも、大推薦!

 ・・・・と、言いたいところですが、とりあえずは、アーノンクールの5番だけ、大推薦、としておきます。
 レミ・バローの3番は、自分だけでこっそりと独り占めして楽しんでいたいような、そんなすてきな演奏、ということで。



 この前ご紹介した全集シリーズの新盤もリリースされました。


 ブルックナー 交響曲第5番変ロ長調

   ゲルト・シャラー指揮、フィルハーモニー・フェスティヴァ


画像



 キャラガン最新校訂稿による全集も、残すところあと2曲。

 満を持して5番の登場。ただ、今回はキャラガン校訂稿ではないみたい。
 こちらは、極めてまっとうなタイムでの、当然のごとくまっとうな演奏。
 あれだけの第9番フィナーレの演奏を実現させてみせた後だけに、この5番のフィナーレフーガも、自信にあふれた堂々たる大演奏。
 圧巻!

 後は、6番のみ。このコンビ、6番が一番合っているような気もするので、これも楽しみ。



 今、一番リリースを楽しみにしているCD。

 たまには、歴史的名演奏家の演奏も。


 ブルックナー 第7番 (1964年ザルツブルク音楽祭ライブ)

  カール・シューリヒト指揮、ベルリン・フィル


 残念ながらステレオではないらしいが、音質は良好とのこと。


 HMV公式HP





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コメント(6件)

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Noraさん、こんばんは。

ブルックナーの音楽と共に岩手、山形と東北を旅したNoraさんのお話を伺って
私も学生時代旅した三陸海岸を思い出しました。
宮沢賢治の短編小説「ポラーノの広場」に、「イーハトーヴォの岩礁の多い奇麗な海岸」
という描写があります。 ある春休みに思い立って三陸海岸を旅しました。
夜明け前、宵闇迫るころ、三陸海岸の崖は蒼く染まるのですがその美しさ…忘れられません。ブルックナーの9番アダージョを聴くとき、三陸海岸の美しさを思い出します。

ご紹介のレミ・バローのブルックナー3番、聴いてみたいと思ってます。
ANNA
2014/10/01 18:51
 ANNAさん、こんばんは。
 9番のアダージョ、蒼いですよね。そう言えば、賢治の作品も蒼いものが多い。何だかかとてもよくわかります。
 以前どこかに書いたような気もしますが、生涯独身だったことや教師の経験があることなどの経歴的なことを始め、その熱烈な信仰心、異常なまでの作品改訂癖、どちらも都会好きなのに田園的なイメージがあること、最後の大作が未完であること、そしてその二つの作品、「銀河鉄道」と交響曲第9番の作品世界の類似性などなど、賢治とブルックナーは妙に似ているような気がします。
 やはり学生時代、冬の北海道を旅行して、真夜中にどこかの駅の待合室で夜行列車の出発を待っていたことがあるのですが、その待合室でなぜか9番のスケルツォがずうっとかかっていたことが今も忘れられません。
 この時も、賢治の「春と修羅」の北海道旅行の詩とブルックナーの音楽が一つに重なりました。
Nora
2014/10/05 01:29
 追加です。
 レミ・バローの3番。記事では熱く語っておりますが、かなり特殊な演奏です。
 万が一、3番第一稿を初めてお聴きになるようでしたら、ヤング等の演奏をお聴きになって全体像を把握なさってからトライなさることをお奨めします。
Nora
2014/10/05 01:30
Noraさん、こんばんは。

このところ、池澤直樹さんが著した賢治の本「言葉の流星群」を読みかえしていて
こちらのコメントを思い出しました。
そうですよね。私も賢治の作品世界は、青をイメージするものが多いなぁと思います。
童話でも詩でも。青も水色のような淡い色合いのものから、藍色、青銅色…
読んでいるとグラデーション豊かな青の世界が目の前いっぱいに広がるようです。




ANNA
2015/02/20 21:26
Noraさん、訂正です。
池澤直樹ではなくて、池澤夏樹さんです。
お名前間違えました〜(苦笑)ごめんなさい。
ANNA
2015/02/20 21:29
 ANNAさん、こんばんは。

 賢治はそもそも、自身最も重要な作品集と考えていた「春と修羅」(と言っても生前出版できたのはそれ以外には「注文の多い−」だけですが)の序文の冒頭に、「わたくしといふ現象は(中略)ひとつの青い照明です」と宣言しています。
 実際、「春と修羅」は青系統の言葉の宝石箱のようですし、この前行った「石の世界と宮沢賢治」展で観た鉱物も、ブルー系統のものが圧倒的に多かったです。(むしろ、宝石や鉱物にはブルー系統のものが多いから、それらの言葉を多用する賢治の作品世界もおのずからブルー系統になる?)
 また、これは様々な作品にも描かれていますが、夜明け近くの、空も大地も青く沈んでいるような時間帯に(時には生徒を引き連れて)野山を歩き回るのが好きだったようです。
 ただ、賢治の作品世界が単純に青っぽいだけかというともちろんそうではなく、ANNAさんがおっしゃるように青の中にも無限のバリエーションがあり、そこにさらに多種多様な色彩が散りばめられている、青を基調にした極彩色の世界と言っていいと思います。
 そのきらめきわたる世界を、言葉だけで目の前に鮮やかに浮かび上がらせてしまうのだから、やはり天才なんでしょうね。
 池澤さんの「言葉の流星群」は未読ですが、昔は「雨ニモマケズ」に象徴される農村の聖職者的なイメージだけが一人歩きしていた賢治が、最近はさまざまなすぐれた解説、紹介本等によって、ようやく言葉の天才としての本質が一般的に定着してきて、うれしく思います。
Nora
2015/02/22 03:51

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