対位法とバッハ・その1?~「主よ、人の望みの喜びよ」ができるまで

 せっかくなので、対位法について考えるきっかけになるようなことを、ちょっとだけ。


 わかりやすい例として、みなさんおなじみの、
 BWV147のコラール 「主よ、人の望みの喜びよ」をあげようと思います。

(このコラールのオブガート旋律は、実は、対位旋律というよりは、コラールの音をそのままなぞった伴奏に近いものなのですが、一応、最もわかりやすいのではないか、ということで)


 このオブリガートのメロディは、ほんとうに、とても美しく、親しみやすい。
 この曲の場合、もちろんコラールがメインなのですが、コラールは知らなくても、このオブリガートの方は、誰もが知っていて、口ずさめるでしょう。

 バッハはいつも小難しい音楽ばかり書いていたようなイメージがありますが、実は類まれなメロディメーカーであり、このオブリガートも、それを証明するような名旋律だと思います。

 でも、ここで気をつけねばならないのは、当然のことですが、バッハは、単純に、美しい旋律を書こうとして、このメロディを書いたのではない、ということです。

 モーツァルトやシューベルトは、純粋に美しいメロディを書こうとして、まるで尽きせぬ泉のように数々の名旋律を生み出した。(らしいですね。わたしはよく知りませんが)
 これはこれで、天才的。
 ところが、バッハは、まるでちがいます。

 この曲の場合、まず、コラールありき、なのはもちろんです。
 まず、コラールにすべてをあわせる必要があります。
 そして、マリアのエリサベト訪問という特別な祝日の音楽、ということや、前のアリアとの関連等から、天の栄光を表す数字、「3」を意識して、3拍子、さらには3連音を強調したリズムになっています。
 さらに、コラールの歌詞の意味、内容の表象をも十分に考慮し、反映させて、そうしてようやく出来上がったのが、あの有名なメロディ、というわけですね。

 こうなるともう、メロディをつくる、というより、「導き出す」といった方が近いかもしれません。


▽ 「埠頭と大洋」 モンドリアン

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 おそらく、バッハにとって重要だったのは、
 「どんなメロディをつくるか」よりも、「どのような全体をつくりあげるか」だったのでしょう。

 本来、作曲家は我々が考えるよりもずっと工芸職人に近かった、と、よく言われます。
 実際、デュファイにとっても、ジョスカンにとっても、メロディなどはどうでもよかった。
 彼らのミサは、自作テーマに基づくものの方がめずらしいくらいです。
 彼らは、もとから存在する素材を用いて、(それは聖歌だったり、時には流行歌だったりします)それぞれまったく独自のミサの小宇宙を構築しました。
 バッハを、そんなルネサンス以来の職人的作曲家の最後の一人と位置づけることは、それほどおかしなことでないと思います。
(これは決して悪い意味ではありません。バッハ自身もそれを強く自覚しており、だからこそミサ曲などをまとめたのだと私は信じていますが、これはたいへんなテーマなので、とりあえず置いておきます)
 そもそも、「コラール・カンタータ」は、一つのカンタータから全体のすべてが構成されている音楽ですが、そのコラール自体、もとからある素材なんですね。

 これは、わたしの思い込みにすぎないのかもしれませんが、
 バッハが何かのテーマを創るとき、そのメロディの美しさそのものよりも、
 何らかの事がらの象徴、表象、
(ここではくわしくふれませんが、それは時には数学的、パズル的符号だったりすることさえあります)
 そして何よりも、対位法的展開の方を優先させていたのは、明らかなような気がします。
 わたしがバッハを工芸職人にたとえたのはその点からです。

 まるで、厳しい制約を、自らに課しているかのようですが、
 それらの制約を徹底して尊重することは、バッハの心の中で、そのまま、
 「神の栄光をたたえる = S・D・G」ことにつながっていたのではないでしょうか。

 そうした二重三重の制約の中から、「主よ」のあの美しいオブりガートも、誕生しました。
 これは、実に、奇跡のようなことだと思います。
 ミケランジェロの例ではありませんが、対位法をはじめとするあらゆる制約をきちんと守ったことによって、自然の中に始めから存在していた音楽が、そのまま音符になったかのようです。


 必要な時、必要なところに、必要なだけの音がきちんとある。
 わたしたちが何かを望む時、いつも望んだものをきちんと用意してくれている。

 それがバッハの音楽です。
 かんたんなようですが、これが一番むずかしい。
 
 バッハは、上記のような方法で、それをなしとげた。

 バッハは確かに類まれなメロディメーカーですが、それはそうなろうとしてなったのではなく、
 対位法技法の厳守を始めとして、S・D・Gの精神を重んじた結果なのだ、というのは、言いすぎでしょうか。
 まあ、言いすぎかもしれませんが、対位法について考えてゆく一つの糸口にはなるでしょう。


▽ 「穏やかな飛翔」 カンディンスキー

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この記事へのコメント

2007年02月20日 11:52
ご無沙汰しております。

>必要な時、必要なところに、必要なだけの音がきちんとある。
わたしたちが何かを望む時、いつも望んだものをきちんと用意してくれている。

ああ、そうだったんだと、なんだかため息にも似た安堵の思いにみたされています。バッハのおおらかさ、豊かさ、ふかさ。
すべてこの言葉で説明していただいたような気持ちです。





 
2007年02月20日 23:49
 こんにちは。ようこそいらっしゃいました。
 そうですね。ロ短調などは、「あるべきところにあるべき音だけがある」音楽の、極限の姿なのかもしれません。
 力のこもった記事をトラックバックしていただき、ありがとうございます。

 ところで、「あるべき音だけがある」と言えば、モーツァルトなどもそうなのでしょうね。
 この頃はモーツァルトの方が圧倒的に優勢なので、バッハ・ファンとしてはもっとがんばらないと!
2007年02月26日 18:59
はじめまして。
Noraさん、非常に勉強になります。
初めてお邪魔しまして感動しています。
とかく、こういうテーマで書かれる場合、
どこぞで話題となりました薀蓄系が多いのですが、
Noraさんの文章、文体は、非常に優しさに溢れていまして
この1ブログを読ませて頂いただけでファンになりました。
ありがとうございます。
2007年02月27日 09:45
 こんにちは。
 わたしは学者や専門家ではありませんから、わたしが書けるのは、もちろんどこかで見た2番煎じで、もし、何か目新しいことが書けたとしても、それはイコール勝手な思い込み、ということになります。(笑)
 でも実は、このようなブログを書いているのには、これまで、なかなか思い込みが書きにくいところにいて、思いっ切り思い込みを書きたかった、ということもあるので、こんな風に言っていただくと、とってもうれしいです。
(ウンチクページに続く)

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