バッハの源流への旅・その5~異郷の幻影・ブルゴーニュシャンソン(1)

 四旬節(レント)に入り、カンタータはしばらくお休みです。
 ほっと、一息。
 大好きな、ブルゴーニュ・シャンソンのことでも書こうと思います。


  ブルゴーニュ・シャンソン 

 その世界の美しさ、不思議さを、いったい何にたとえればいいでしょう。


 でも、音楽そのものの魅力にふれる前に、
 ブルゴーニュ・シャンソン(=中世末期~ルネッサンス最初期の世俗音楽)
 については、かなり誤解されている部分があるようなので、まずかんたんに整理しておきます。

(わたしの悪いくせですね。特に役立つことでもないので、めんどうくさい方は、この部分は飛ばしてしまってください。
 また、例によって、わたしの思い込みの部分も大きいと思います)



 ルネッサンス以前、音楽の中心は教会だった、というように、音楽の教科書には必ず書いてありました。
 ですが、もちろんそれは、きちんとした記録が無い、というだけの話。
 最近の研究によって、特に、トルバドゥール、後のトルヴェール等の宮廷音楽を中心に、中世の音楽も次第に明らかになりつつあり、それらに、完全に失われてしまった一般民衆の音楽を加えると、むしろ、教会音楽こそが氷山の一角にすぎない、ということがわかります。
 まあ、当たり前の話かもしれません。

 ですから、ブルゴーニュ・シャンソンというと、
 いかにもルネッサンス的な、教会音楽が一般にも広まったかたちの、新しい音楽、という風に思われるかもしれませんが、
 実は、トルバドゥール、トルヴェール等の宮廷音楽が最後にたどりついた、最高度に成熟した、(もう爛熟と言っていいかもしれない)音楽なのです。

 芳香を放つまでに熟れきって、今にもこぼれ落ちそうな果実。


 さらに、注意しないといけないのは、当時は、教会支配が絶対的でしたから、宮廷をはじめ、日常生活自体、宗教的な要素の強いものだった、ということです。
 したがって、ブルゴーニュ・シャンソンは、世俗音楽といいながら、その中には、教会音楽との境界があいまいな部分が、意外と多く見られるのです。
 つまり、単に教会以外で演奏されるというだけで、内容的には非常に接近しており、中には、モテトゥスそのものと言ってもよい曲まである、ということ。


 そして、おしまいに、これが最も重要で、ブルゴーニュ・シャンソンの特徴=魅力を端的にあらわす部分でもあるのですが、
 「世俗音楽」という言葉から、一般民衆レベルの音楽と考える方もいると思いますけど、
 これは、実は、逆も逆、ブルゴーニュ・シャンソンは、王侯や貴族との宮廷社会という、ごくごく特別な、むしろ教会音楽よりもさらに対象の限られた、特殊な音楽なのです。

 しかも、中世の宮廷と言えば、現代からすると、まさに想像をはるかに超えるような、
 ランチキ騒ぎの酒池肉林の世界。

 豪華絢爛な式典の類はもちろんのこと、
 まばゆいばかりのパーティーそのもののような公式会議、
 水浴場や決闘、馬や動物を使った競技大会、などなど。

 コンスタンチノープル陥落を受け、
 フィリップ公と金羊毛騎士たちが十字軍の決起を誓った、
 歴史的な「雉の祭典」では、
 士気を高めるためか何か知りませんが、、
 ちょっとした建物ほどある巨大な城型パイが大登場。
 どこからともなく妙なる音楽が流れ始め、それが盛り上がると、パイが破裂。
 なんと、中から何十人もの楽師たちが登場したといいます。
 しかも、それらがすべて、ヨーロッパを代表するような超一流の楽師たち。

 以前はデュファイ大先生も当然かかわっていた、とされていましたが、
 今ではちゃんとしたアリバイがあって否定されています。
 ホッ。

 中世末期、十字軍で緊迫した情勢下、
 名君、善良公とたたえられたフィリップでさえもがこの体たらく。
 それ以前となると、何をか言わんや。

 いくら想像力を働かせても、はるかにおよばないほど、
 この妙な絵でさえも、まだまだおとなしいくらいかもしれません。
 ある意味、人間のすべての煩悩願望が現実となった、理想?の世界。


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 しかし、ブルゴーニュ・シャンソンは、そのような、今となっては異次元としか思えぬ空間、失われた禁断の世界で奏でられていた音楽だからこそ、抗し難い美しさ、この世のものとも思えぬ美しさをたたえている、とも言えるわけです。

 わたしは、ブルゴーニュ・シャンソンを聴いていると、
 深く立ち込める霧の間に、ぼんやりと、
 もう決して行くことのできない、また、決して行ってはならない、
 究極の美の世界が、禁断の美の世界が、
 幻灯のように、現れては消え、現れては消えるのを見るような気分になります。

 * 以上、ちょっと、ホイジンガ「中世の秋」のイメージをパクリ。


 さて、ここまで言ってしまうと、
 眉をひそめられる方、
 そんなものだったとは、と、がっかりなさる方も、いるかもしれません。
(わたしは、望むところなんですが)

 でも
(と、ここからが声を大にして言いたいところなわけですが)
 安心してください!

 デュファイやバンショワ、そして彼につづく大作曲家たちのシャンソンを一度でも聴いたことのある方は、そこに、例えようも無い気品のようなもの、さわやかな光や風や香りのようなものを、必ず感じ取ったはずです。

 そして、それは、決してかんちがいなどではありません。
 デュファイは、そのような特殊な状況下の異世界にありながら、
 現代のわたしたちの心を揺さぶるような普遍的な音楽を、まちがいなく創造したのです。
 そして、多くの作曲家たちが、それを範として続いた。

 つまり、ブルゴーニュ・シャンソンは、これまで書いてきたような、極めて特殊な唯一無二の美しさに加えて、ある種普遍的な芸術性をも有している、驚くべき音楽、と、言うことができるわけですね。


▽ ギョーム・デュファイ、3声ロンドーの美しい楽譜

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 わたしは、この点こそが、デュファイの芸術のすさまじさだと思います。
 この超越的な感性ゆえに、わたしは、デュファイのことを、我らがJ.S.バッハでさえ足元にもおよばぬような天才なのではないか、と、考えています。

 デュファイは、さらに、このランチキ騒ぎ用に自らが生み出したシャンソン等をもとに、巨大で崇高、そしてこの世のものとは思えぬほど美しい循環ミサの世界を構築。

 これが、この後、大バッハを経てはるかな未来にまで綿々と続く、
 大きな大きな奔流の源流となったのは、これまで見てきたとおり。

 一地域の民俗音楽にすぎなかったヨーロッパ各地の音楽が、突如一つに統合され、
 極めて普遍的な性格を有する「西洋芸術音楽」という大河が、誕生した瞬間です。



 さあ、ごたくはこれくらいにして、いよいよその美しい音楽の世界を紹介しましょう、
 と、思ったら、思わず熱くなって、すっかり長くなってしまった。


 デュファイ、オケゲムについては、これまでも書いてきたのでよいとして、
 その他のこの世界の主役たちを、できれば何人か、最低でもバンショワくらいは、
 ご紹介したかったのですが、
 さすがに、ちょっとくどくなるので、もうやめます。
 いつかまた、機会があれば。


▽ かわりに、世紀のツーショット
  左がギョーム・デュファイ、右がジル・バンショワ
  何か、とても楽しそうに話してます。

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 と、いうわけで、今回はこれで終わり。
 またまた、つづく。
 次回は、いきなり、めくるめく演奏の数々をご紹介しましょう。



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この記事へのコメント

2007年02月24日 05:27
おはようございます。

とうとうNoraさんの「ブルゴニュ・シャンソン」をはき謙させていただけるんですね。
実はまだ本文を読んでいません。
週末は東京です。これからの朝一番の高速バスに乗らなければなりません。
帰り次第、ゆっくり読ませていただきますね。
では、また改めてお邪魔させていただきます。
2007年02月25日 15:05
 お忙しい時にコメントしていただき恐縮です。
 無事お戻りになりますように。

 わたしもかんじんのところで力つきてしまい、今続きを準備しているところです。

 いつものくせで断言した文章になっていますが、もちろんわたしはブルゴーニュ公国になど行ったことないので、ほとんどが思い込みのようなものです。
 一般的な常識やみなさんの想像を否定するような内容かもしれませんが、寛大なお気持ちで読んでくださるとありがたいです。
2007年02月26日 20:55
Noraさん、こんばんは。
とてもヴォリュームのあるブログ本文でしたのに、読んでいてとても楽しくてあっという間に読み終わってしまいました。
デュファイをこんな風に考えたり、中世をこんな風に感じたり、不遜な言い方かも知れませんがとても新鮮で面白く、また私が常々抱いていたイメージに繋がる部分もあって、大いに共感しながら拝見させていただきました。
 と、ここまで、私にしてはずいぶん高いテンションで書いてしまいました。
なぜならば、Noraさんご自身、とても楽しんで書いてらっしゃる雰囲気がこちらにも伝わってきたからです。
勢いのある熱い文章に、こちらも乗ってしまいました(笑)。
ほんとうにブルゴーニュ・シャンソンがお好きなんだなと感動しています。
2007年02月26日 20:55
>デュファイやバンショワ、そして彼につづく大作曲家たちのシャンソンを一度でも聴いたことのある方は、そこに、例えようも無い気品のようなもの、さわやかな光や風や香りのようなものを、必ず感じ取ったはずです。

私がたまたま聴いた一枚のCDにも、デュファイの音楽のふしぎな魅力はあふれています。

「中世」という、一見特異な時代に溢れていたグロテスクなまでの生命力。
猥雑なもの、混沌、の中から生れ落ちたブルゴニュ・シャンソン、そしてデュファイ、アンビバレントな魅力に溢れています。
2007年02月27日 15:43
 おしゃるとおり、アンビバレントなところがブルゴーニュ・シャンソンの魅力のひとつです。
 その独特の感じは、美術や文芸の世界と連動して、音楽を、次の時代へ推し進めようとした、デュファイをはじめとする音楽家たちの格闘の結果に他ならないような気がします。
 一般的に、デュファイの場合、そのミサの驚くべき先進性、普遍性に比べて、シャンソンは、中世の影響を色濃く残す、と、言われてますが、それはあくまで外面上のはなし。
 この人の場合、何気ないシャンソンの一つ一つまでもが、はるか遠くを見据える視線に貫かれているように、わたしには、感じられます。

 よく、音楽史におけるベートーヴェンやワーグナーの革新性、ということが言われますが、それはあくまでも、西洋音楽史という限られた土俵でのこと。
 ベートーヴェン以前と以降の隔たりは、中世とルネッサンスの隔たりに比べれば、何でもありません。(あ、これはちょっと言い過ぎかも)

 混沌から、西洋音楽という普遍的なジャンルそのものを生み出した、デュファイという人は、すさまじい意思の力(と才能)を持った人だったのではないか、と、わたしは思います。

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