まさかの巨大ルネッサンス音楽出現?ハウシルト&新日本フィルのブルックナー【マリアの潔めの祝日】

 少し早いですが、まずはカンタータのお知らせから。


 今度の日曜日、2月2日(顕現節後第4日曜日)のカンタータは、

 第1年巻のBWV81
 バッハの最後期のカンタータの一つでもある、コラール・カンタータ年巻補完作、BWV14

 の2曲。

 まるでオペラのような情景描写が魅力のBWV81、超絶対位法技法が炸裂するBWV14、
 実に対照的な2曲が並びました。


 教会カンタータ、と一言で言っても、その世界は途方も無く幅広く、そして大きい。

 バッハの後半生の職務上、わたしたちはその時期に生み出された膨大な作品群を「教会カンタータ」という一言でくくってしまっているので、それによって近寄りがたい固定観念が生じがちだが、当時のバッハにとって信仰というのは当然のことであり、たいていのカンタータは、ごく日常的な、魅力あふれる音楽作品なのだ、ということを、忘れてはならない。


 そして、2月2日は、そのことを、何よりも雄弁に物語る、バッハ・カンタータ祭り!

 マリアの潔めの祝日でもあります。


 バッハ・ファン、カンタータ・ファンのおまちかね、バッハのカンタータの最高峰がずらりと並ぶ祝日の一つです。

 カンタータはたくさんありますので、一覧表をご参照ください。


 【潔めの祝日・カンタータ一覧】


 どれをとってもバッハの最高傑作といってよい作品ばかりですので、ぜひこの機会に、この中の1曲でもお聞きいただき、ご自分だけの大切な一曲を見つけて、カンタータの世界を少しでも身近に感じてくだされば幸いです。


 CDも、この日のカンタータばかりを集めた選集をはじめ、名盤ぞろい。

 先週御紹介した、ヌリア・リアルの新しいアリア集でも、この日のカンタータの中でも最高峰の一つ、BWV82の、その中でも最も有名なアリア、つまりアリアの王冠とも言うべき名作アリアの、美しくも真摯極まりない名演を聴くことができます。(BWV82は、バッハ自身によってソプラノ歌唱版でも再演されていますが、このCDの場合は、アンナ・マグナレーダ・バッハの音楽帖にちなんでの選曲ということになります)


 過去記事も、たくさんあります。↓


 <マリアの潔めの祝日>

    マリアとバッハ~はじめて聴くカンタータ
    お気に入りのアリアその3(BWV82)~夕映えのR.シュトラウス
    シメオンの涙~マリアの潔めの祝日 【潔めの祝日・カンタータ一覧】
    お気に入りのアリア・潔めの祝日編 とっておきの1曲(BWV157他)
    カンタータの名演を試聴してみましょう!(BWV82他)
    カンタータの祭典!!マリアの潔めの祝日&五旬節
    雪のエストミヒ
    バッハ入魂!BWV125


 <顕現節後第4日曜>

    我らがトマスカントルの暴走・対位法の彼方にあるもの(BWV14他)
    顕現節後第4日曜(BWV81他)



▽ トリフォニーホール入口から見たツリー。
  以前ハウシルトさんのブルックナーを聴いた時は、まだまだ半分くらいだった。

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 1月24日(金)

 新日本フィル 第519回定期<トリフォニー・シリーズ>

 シューベルト 交響曲第4番「悲劇的」

 ブルックナー 交響曲第4番「ロマンティック」


  ヴォルフ=ディーター・ハウシルト指揮、新日本フィルハーモニー交響楽団


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 ちょっとすごいブルックナーだった。


 ハウシルトさんに関しては、以前豪放磊落な第9番を聴いてすっかり魅了され、記事にも書いたが、(こちらの記事
 それからいつの間にか4年近くが経ってしまった。
 朝比奈さんが亡くなった頃、その代役として日本デビューを果たした時には、脂が乗りきった60代だったこのブルックナーを得意とするドイツの名匠も、早や70代後半、昨年は病気で来日中止になったりして、今回も万全でない体調をにらみながらの演奏会だったようだ。
 (上記記事の演奏会も、やはりトリフォニーホールで聴いたのだが、記事にあるスカイツリーの写真がまだ半分くらいしか無いのが、月日の流れを感じさせ、感慨深い)


 今回は、そんなハウシルトさんの指揮による、新年早々、久しぶりのブルックナー、
 しかも、あまり聴く機会が無かった4番、
 ということで、胸躍らせて出かけたわけだが、これが、期待をはるかに上回る、ちょっととんでもない演奏を体験する結果となった。


 何を隠そう、ブルックナーの4番、わたしは大好きなのだが、今回ついに、曲本来の魅力に限りなく迫る演奏に出会えたような気さえする。



 まず、前半のシューベルトが、格別すばらしかった。

 このところ、なぜかシューベルトの交響曲をライブで聴く機会が多く、初期シンフォニーや未完成などを聴いてきたのだが、どれも曲自体にあまりいい印象を持てないでいた。
 ところが、この4番に関しては、大好きな9番(今は8番?グレートと呼ばれていた曲。これだけは文句無しに好きなのだ)にも並ぶような迫力とスケールを持った湧きたつようなロマンがびしびしと伝わってきて、(特に終楽章)
 そのことが実に意外で、特に心に焼き付いた。

 基本的にストリングスは、今はやり?のノン・ヴィブラート奏法。それでいて、せかせかすることのないゆったりとしたテンポ。
 それをあくまでも貫き通したことが、この演奏につながったのかもしれない。
 フィナーレ、
 さまざまな楽器がさまざまなモティーフを交互に歌いかわし、重なり合ってゆくと、そこから、ロマンあふれるメロディが立ち現れ、めくるめく疾走を繰り広げるあたりのおもしろさ、爽快さ!
 これらは、生演奏ならではのステレオ効果、そして、何よりも、その演奏法あってのものだろう。



 そして、ちょっと苦手なシューベルトの交響曲で思わぬ感銘を受け、否が応にも期待に胸が高まる中での、メインのブルックナー


 この4番、ご存知のように、ベースとヴィオラが大活躍する。
 アダージョやフィナーレで続出する、ベースのピチカートに支えられたヴィオラの歌、
 そして、フィナーレのコーダ、ここぞという時に、大地の底から湧き上がるかのような、ベースの「百万人の大合唱」、
 などなど、
 ちょっと考えただけで、もうぞくぞくする。

 と、いうわけで、今回は、舞台のすぐ前の、ベースやヴィオラの並ぶ目の前の席をあえて選んでみました。

 それが大正解だった!
 8台のベースが轟かせるピチカート、いや、ピチカートなどというかわいらしいイメージの言葉とはかけはなれた、まるで弦を叩きつけるかのようにして打ち鳴らされる雷鳴のような大音響をすぐ間近で体感する至福。
 同じく、奏者の息遣いが伝わってくるほど近い位置で切々と奏でられる、例えようも無くさみしいヴィオラの歌も、そのままストレートに心に突き刺さってくる。

 はっきり言って、もう、これだけでノックアウト状態。


 ただ、困ったことも。

 コントラバス&ヴィオラの高い壁に阻まれて、その他の楽器の奏者が全く見えない。どこに何があるのか、どんな人が演奏しているのかさえわからない。
 もっとも、その位置からだと、ハウシルトさんの指揮姿、横顔はものすごくよく見える。葉加瀬太郎そっくりなコンマスの姿も。
 しかし、それ以外は、まるで見えない。

 だが、慣れてくると、それほど気にはならないものだ。
 そもそも低音が充実した音響は、わたしの好みだし、バランス的にそれほど悪くは無かったと思う。
 例え奏者は見えなくても、木管のさえずりは、風に乗って運ばれてくるかのようにきちんとわたしのところまで届くし、
 金管や打楽器の咆哮は、あたかも巨大な山塊のように、ベース&ヴィオラの壁をはるかに超えてそびえたつ。

 そんなこんなで、結局、聴こえてきたのは、大きな大きな呼吸の、昔ながらの悠然たるブルックナー大演奏!

 
 時を超えてしまうかのようなテンポ、(この日の演奏は、4番なのに、そしてスケルツォがけっこう快速調だったのに、80分近くかかった)
 大地を刻み込むような強靭なリズム、
 心から安心できるその波動の中で、これでもかこれでもかと次々に繰り出される、もう何十回聴いたかわからない愛すべきフレーズたち、神がかった和音の連なり、対位法。
 それらを、舞台のすぐ前で、文字通り全身に浴びる。
 それらのフレーズ、和音、対位法などに隠された、やさしさ、悲しさ、温かさ、大きさなどに心が同調し、あふれるような思いが湧き上がってくる。

 これぞ、ブルックナーを聴く醍醐味、幸福!


 そして、

 これはまあ、本来どちらでもいいようなことでもあるんだけど、
 反面、ある意味この点こそがこの記事の核心にもなるような気もするので、一応、記録しておくと、

 今、対位法、ということを書いたばかりだが、このブルックナー演奏には、もう一つ、驚くべき大きな特徴が存在していた。

 ハウシルトさん、何と、シューベルトに続いて、このブルックナーの大曲においても、基本的にノン・ヴィブラートを貫き通したのである。(少なくともストリングスに関しては徹底されていたと思う)

 ノン・ヴィブラートに抵抗ある方、ノン・ヴィブラートの演奏とそうでない演奏とを過敏に区別しがちの方は、上記の壮大で時代がかった、熱いブルックナー演奏が、ノン・ヴィブラートで成し遂げられたということを、信じていただけるだろうか。
 ノン・ヴィブラート「でも」壮麗だった、のではなく、ノン・ヴィブラート「だからこそ」その壮麗さが増したのだ、と言ったら。
 
 かく言うわたしも、さすがにこれには驚き、しばし呆然としてしまった。

 ロマン派最初期のシューベルトでは、今ではそれほど驚くようなことではない。
 ブルックナーについても、これまでに何度も、ノン・ヴィブラートのすばらしい演奏は聴いてきたし、その抗しがたい魅力については記事にも書いてきた。
 しかし、それらは、たいていが颯爽としたテンポのよい演奏で、この日のハウシルトさんの演奏のように、ゆっくりと朗々と歌うテンポで、堂々とノン・ヴィブラートを通した演奏と言うのは、ちょっとこれまで聴いたことが無かった。というより、想像したことさえ無かった。

 でも、聴き進めるうちに、すぐに、そんなことはどうでもよくなった。
 上記のとおり、その見事な演奏に陶然となり、ただただ夢中になった。

 細かいことを考える余裕は無かったし、また、そもそもそんな必要も無いのだが、この時に、確かに感じられたのは、
 初めて聴く「悠々たるノン・ヴィブラート」によって、音楽の透明度が増し、壮麗な対位法が際立って見事に像を結び、音楽構造体としての魅力が明らかに増幅していたこと。
 さらに、筋金入りのオルガニスト、さらにはそれ以上の合唱オタクとしてのブルックナー独特の(一部の)旋律が、これまでわたしたちが考えていた以上に、ノン・ヴィブラートにぴったりだったこと。
 などなど。

 そうして、これらのことが、上記のようなブルックナーならではの醍醐味に、決定的に大きく作用していたことは、まちがいないと思う。
 少なくとも、これまで、こんなにも見上げるばかりに大きく美しい対位法の伽藍は、体験したことが無かった。
 目の前で聴いて心に突き刺さったヴィオラの歌の寂寥感も、ノン・ヴィブラートによるところが大きかったように思う、

 正直、あまりのことに途方に暮れてしまった、というところもあるんだけど、もしかしたら、ブルックナーの頭の中に響いていたのは、実はこのような音楽だったのでは、などとさえ思えてきた。


 そういうわけで、
 はじめに書いたようにそもそも席自体が特殊だったし、その上、新鮮な驚きと興奮に我を忘れてしまって、きちんとした感想などとても書けない状況。(それに、このような演奏を前にすると、細々としたことを書き連ねることなど、何だかばからしく思えてしまう)
 あまりにも主観的な記述ばかりで心苦しい限りだが、
 これまでの様々なブルックナー体験と比べても、最高レベルと言ってよい体験が、また一つ記憶に焼きつけられたことだけはまちがいはない。

 
 いずれにしても、夢のような一夜だった。 
 
 まるで、20世紀後半の、日本のブルックナー演奏の黄金時代が、目の前に突然立ち現れたかのよう。
 あの涙が出るほど懐かしい、「コッテコテ」のブルックナー演奏が炸裂。
 しかも、ノン・ヴィブラートという現代最先端(実は過去)の要素が加味され、さらにグレードアップした形で・・・・!

 ブルックナー演奏、ついにここまで来た??



 おしまいに、すぐ近くでじっくりと観察したハウシルトさんとその指揮姿についてのメモ。


 以前よりもふくよかになった丸い横顔、体形。

 その姿は、指揮棒を持ってはいるが、晩年のマタチッチさんととてもよく似ていると思った。  と、いうことは、ブルックナーその人にも限りなく似ている、ということ。

 それだけで、妙な安心感が湧いてくる。


 前半のシューベルトは立って指揮なさっていたが、体調のこともあってか、後半のブルックナーは椅子にかけての指揮となった。

 指揮棒は小刻みに動き、表情も豊かに変化するが、体の動きは、音楽と同様、実に泰然としている。
 常に体を前後に揺らせ、手を大きく泳がせて、まるで音楽に合わせてゆったりとダンスしたり、見得を切ったりするような、クナッパーツブシュ・タイプ。

 基本的にはエネルギッシュで、ここぞという時にはものすごい気合を入れる。
 時折大きな唸り声をあげるのは、朝比奈さん風。

 楽団員が興に乗っていない瞬間があろうものなら、全力で音楽を盛り上げようとし、
 最高と思われるような瞬間が訪れると、心からうれしそうな表情を浮かべる。


 そのような指揮姿を見るにつけ、この人の演奏は、やはり心から安心して聴くことができる、と確信した。



 ハウシルトさんのブルックナー、今後も可能な限り聴き続けていこう、心からそう思った。



 つけたし、


 演奏が終わり、熱狂的な拍手もおさまった後、(これもまた懐かしかった!)
 余韻にひたりながらしばらくぼんやり席に座っていると、なぜか、年末年始に相次いで亡くなった、かしぶち哲郎さんや大瀧詠一さん、そしてアバドさんのことが思い浮かんだ。


 エリック・ドルフィーが言ったように、音楽は時間と空間の中で、この世界に響いた瞬間に消え去ってしまう運命にある。
 しかし、作曲家の心から生み出された音楽が、演奏家を通じてこの地上に響き、それを聴衆の心が受け止め、たくさんの心、心と心とがつながった時、その刹那とも思えるほんの一瞬に、どれほどの大きなこと、かけがえの無いことがなしとげられることか!


 つい先ほどまで、目の前に存在していた光の大伽藍は今はもう消え去った。
 しかし、それは何よりも確かで尊いものだった。
 

 音楽と同じように儚い人の一生そのものも、やはりかくの如く確かで尊くあってほしいものだ。
 ふとそんなことまで考えてしまうような、良い演奏だった。




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 2014年のスカイツリー 光の塔。


 初詣の神田神社から見た、黄金に輝くツリー。

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 バレエを観たシビックセンターから。

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 トーハクのある上野。

 モネとツリー

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 だんだんと近づいて・・・・、


 ついにここまで来た。


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