鎌倉観音三十三ヵ所コンプリート!~頼朝自身の遺構をたずねる・鎌倉再訪記特別編その2

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 続き。



 鎌倉にも三十三ヵ所観音霊場がある。
 若い頃、鎌倉が大好きで、何かあるたびにやたら行っていたので、おそらくこの時すでに、三十三カ所のお寺は何度かずつは訪れているはずだが、その頃は、三十三ヵ所観音霊場のことは知らなかった。

 ブログを書くようになってから、再び鎌倉を訪れるようになり、本家ブログ(カンタータ日記)で「青春の鎌倉再訪記」というのを始めた。
 それからというもの、「カンタータ日記」と「奥の院」両方で、鎌倉を訪れた記録を書き記してきたが、最近ふと思いついて調べてみたら、「鎌倉再訪記」を書きはじめて以降に限定しても、一つのお寺を残して、概ねすべてのお寺に行っているということがわかった。
 中には、中に入れず門の前を通りだけのお寺や、巨大寺院の塔頭等、きちんと参拝しなかったお寺もあるが、まあ、だいたい、ということで。

 と、いうわけで、今回、せっかくすぐ近くの永福寺跡まで行ったので、ちょっと足をのばしてその最後のお寺、瑞泉寺まで参拝した。

 こんな有名なところに行っていなかったのだ。なにしろ、けっこう遠いので。

 何と、20年数ぶりくらい?の訪問です。



 * なお、本ブログにおける鎌倉に関する記事(「鎌倉再訪記」以降の鎌倉の記事)については、テーマ「鎌倉」のページから、すべてご覧いただけます。

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 鎌倉宮の向かって左側、小川沿いの美しい谷戸の路をずっと登ってゆく。

 長い路のつきあたり、ようやく瑞泉寺にたどりつく。


 瑞泉寺


 谷戸の最奥に佇む、典型的な鎌倉のお寺。
 しかも、だいぶ谷戸を登るせいか、この谷戸の果ては特別山深く、鎌倉でも有数の自然あふれる寺院。

 南北朝時代の武将(もと鎌倉幕府の御家人)、二階堂道蘊が、夢窓疎石を開山として創建。

 二階堂道蘊は、すぐ近くの大塔宮に祀られている悲劇の皇子、護良親王とも戦った人物。
 護良親王は鎌倉で処刑されたが、道蘊は京都で処刑された。

 この美しい花の寺にさえ、このような悲劇的なエピソードがからんでいる。


 総門を入り、進んでゆくと、どんどん深山の趣が増してゆき、実に清々しい。

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 ここまで、深い山を分け入ってかなり登ってきたので、どんな大寺院に来たのかと思うが、この山門の中は、山の中の小さな陽だまり、みたいな、いつもの「鎌倉サイズ」のコンパクトな境内。

 ただし、住宅地からかなり離れているため境内は一際清浄な気配に満ち溢れ、常に美しく整えられて、四季折々の花が絶えることが無い。
 そして、他の寺院と決定的に異なるのは、他では絶対に観ることができない、夢窓疎石自身の手によると伝えられる「鎌倉ならでは」の庭園が現存していること。(埋もれていたものを復元した)


 境内

 これまでずっと鬱蒼とした中を歩いてきたので、陽当たりのよい境内がまぶしい。

 本堂に祀られる本尊は、釈迦如来像。
 その他、仏像は水戸光国の寄贈と言われる千手観音菩薩像等。
 (お堂の扉は閉ざされている)

 他に、仏像は、地蔵堂のどこも苦地蔵など。

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 本堂のすぐ裏手の崖には、先ほどの参拝した鎌倉宮と同様に、巨大な穴(やぐら)が。
 こちらは、土牢などとはまったく異なる芸術的な目的で利用された。

 この野趣満点の景観が、復元された、夢窓疎石による、「鎌倉ならでは」の庭園」。

 復元されたと言っても埋もれていたものを掘り起こしたくらいだし、庭園自体本堂のすぐ裏に無造作に広がっていて、京都等の大寺院のように方丈に座ってゆっくり庭園を眺めるようなこともできないため、夢窓疎石による当初の姿をしのぶには相当な想像力が必要かもしれない。
 しかし、一度ツボにはまると、不思議と心に響いてくるものがある個性的な庭園でもある。

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 鎌倉宮まで戻り、鳥居を入ってすぐ横のお茶屋さんで休憩。

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 よりとも号

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 鎌倉宮から、荏柄天神の方へ。

 次は、ある意味頼朝の最大の遺構である、鎌倉(大倉)幕府の跡を訪ねる。

 実は、鎌倉幕府跡、鎌倉を訪れた多くの方が、その中を歩いている。


 荏柄天神社

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 こじゃれた蕎麦屋さん。

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 荏柄天神前の路をさらに進む。

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 東御門橋のたもとにある、東御門跡。

 ここから八幡宮側にある西御門跡の石碑までの広大な敷地が、鎌倉(大倉)幕府跡。
 かなり広大な施設だったことがわかる。

 このあたりの石碑には、地元の子供たちが書いた解説の看板も添えられている。
 これらを読みながら散策するのも楽しい。
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 鎌倉(大倉)幕府跡


 一般に「幕府」と呼ばれているが、実際は、全国の武士集団の主従関係の頂点、鎌倉殿(将軍)の御所。つまり大倉幕府跡は頼朝の邸跡ということ。
 京風寝殿造りの壮大な建築で、その邸内で政務も行われた。
 大倉幕府は、鎌倉で最初の幕府で、当然壮大な規模を誇った。


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 幕府跡内の小路は、よく整備された遊歩道になっている。

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 大倉幕府の広大な敷地の北側の崖には、頼朝公の墓(その他、大江広元の墓等も)がある。

 その前には、頼朝公を祀る白旗神社。

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 すなわち、頼朝公は、現在も幕府を見下ろしながら眠っている。 すなわち、頼朝公の墓を中心にして、西に西御門、東に東御門、その正面入り口に、鎌倉幕府跡の石碑が立っているというわけ。

 頼朝公の墓を中心に、すべての史跡がきれいに配置されている。

 このあたりは、現在はほとんどが閑静な住宅地になっているが、八幡宮と並ぶもう一つの鎌倉の中心でもあるのだ。



 さらに南下し、金沢街道に出る。


 岐れ路の名店。

 このあたりにはおいしいパン屋さん(喫茶コーナーも付属)が多い。

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 この南側に、頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した、当時の鎌倉で最大の寺院、勝長寿院が広がっていた。


 勝長寿院跡


 勝長寿院は、永福寺を建てた後、頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した大寺院。

 谷戸全体に壮大な伽藍が立ち並び、多くの巨大仏がまつられ、寺院全体としては当時鎌倉最大の規模を誇った。
 頼朝の死後になるが、運慶の五大尊像等も存在したと言われる。


 金沢街道と滑川を超える。正面にいきなり文覚上人邸跡の碑(左下)。
 文覚は、言うまでも無く、頼朝の宗教的ブレーン。このあたりは、ほんとうに頼朝色が濃厚なのだ。

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 谷戸をしばらく進むと、先方に碑が見えてくる。

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 これが、勝長寿院跡の石碑群。

 もともと、義朝の菩提を弔うための寺院なので、現在も義朝の墓と伝えられる五輪塔がある。(左写真の奥)


 谷戸の小路。遠くに猫が歩いていて、のどか。

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 谷戸全体を見渡すため、周囲を囲む山に登ってみる。

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 勝長寿院のあった谷戸を見わたす。

 かつてここに、壮麗な大伽藍が立ち並んでいた。

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 さらに西側に登ってゆく道。

 確か、釈迦堂ヶ谷(現在は通行止め)の方へ続く道だった。

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 最後に、

 今回はとりあげていないが、
 頼朝自身の手による最大の遺構が、あまりにも有名な、

 鶴岡八幡宮

 についてもちょっと。


 段葛は現在工事中。(帰りのバスから撮影)

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 三方を山に、一方を海に囲まれた天然の要塞のような土地全体を眼下に見下ろす絶好の地に、まず先祖代々篤く信仰してきた武神をまつり、そこからまっすぐ海に向かって大通りを延ばして、それらを中心にすべての街づくりを施行。
 街のどこにいても先祖代々の武神である八幡宮に抱かれているというわけ。
 さらに、三方の山あいの谷戸には、魂の拠り所である寺院等を配置。宗教と政治が混然一体となった、正に武士の都。
 このような例は他に例も無く、その基本的な形は現在に至るまで保たれている。

 しかも、日本で最初の武士の都。

 なぜ、世界遺産の申請に失敗したのか理解に苦しむが、世界遺産になって、これ以上観光客が増えたらたまらないので、まあ、いいか。


 
 頼朝が創建に関わった寺院には、その他に補陀落寺等もあり、現存しているが、創建当時とはまったく姿を変えてしまっている。
 しかし、さすがは歴史のあるお寺。伝わっている仏像、寺宝等の質・量は、鎌倉随一。

 また、創建の由来として頼朝伝説が伝えられている神社に、有名な銭洗弁天、佐助稲荷などもある。

 これらの神社の背後の山は源氏山公園で、頼朝公の銅像が今も鎌倉の街を見っている。



 駅に着いてから、おやつ。

 小町通りが混雑してたので、西側にのびるわき道のお店。

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 鎌倉駅西口、線路際の名店、いろいろ。

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 レトロホテル ニュー鎌倉

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 種類が多く、どれもおいしい、ドライフルーツの左近

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 ちょうど夕暮れ時になったので、江ノ電に乗って、鎌倉高校前あたりに行って、夕焼けの江ノ島でも撮ろうと思い、江ノ電乗り場へ。


 そうしたらものすごいラッシュ。

 江ノ島で花火があるという。

 今年は花火が観られなかったので、急遽、観ていくことにした。


 すごい人、人、人。

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 江no・fes Enoshima Festival 2015 の一環のイベント

 ふじさわ江の島花火大会


 はじめ、海岸の方へ。
 混んでいて、海の見える場所までは行けなかったが、いきなり頭上で美しい花火が炸裂して驚く。

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 しばらくしてから、江の島の橋の東側に移動。
 橋のたもとあたりから見ると、ちょうど正面が花火が打ち上げられている海で、えらいことになっていた。、

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 帰りは、湘南モノレール江ノ島線で。

 ケーブルカーみたいな、めずらしい懸垂式モノレール。夜であまり見えなかったのが残念だった。

 江ノ島の駅(湘南江ノ島駅)は、何と5階建てビルで、最上階がホームになっている。
 一部エスカレーターがあるものの、けっこうたいへん。



 こんなん、できました!

 長谷寺、観音ミュージアム

 以前から宝物館のようなものはあったが、開館35周年を記念して、全面リニューアルオープンしたらしい。

 観音様の教えを体感する施設、とのこと。

 企画展 「長谷寺・仏教美術の至宝 ―彫刻編―」開催中。けっこうすごそう。

 公式HP 

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 鎌倉時代


 大人気の鎌倉、多くの風光明媚な観光地があるが、それぞれの歴史をくわしく見てみると、思わず目を背けたくなるような残酷な事件にかかわる舞台であることが多い。
 鎌倉が日本史の表舞台だった鎌倉時代の歴史は、血塗られた凄惨な歴史なのだ。
 (今回訪れた大塔宮や瑞泉寺を見てもわかるように、それは鎌倉幕府が滅びた後、南北朝時代、そしてさらにその後のまで続く)

 争いに続く争い。暗殺、裏切り。
 そもそも鎌倉時代を切り拓いた頼朝自体が、「猜疑心から肉親である実の弟を殺した」とされており、その歴史的業績に対していまだに人気が無い。

 鎌倉時代がきらいだ、と言う方が多いのもうなずける。


 だが、注目しなければならないのは、その時代が、当時の関東、坂東にとっての「青春の時代」だったということ。
 
 それまで、中央からは夷国と言われ蔑まれてきた坂東。文化的にも一段低い土地柄とされ、中央の繁栄を支えるためだけに存在する土地。そこに生きる坂東武者たちは、生きるために中央の言いなりになり、忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐え続けてきた。
 
 自分たちの自由な国をつくりたい、そんな夢を掲げて、将門公が坂東のために立ち上がってから約250年、
 ちょうど時代の要請に答えるかのように、源頼朝というかけがえのない貴種が、坂東の真ん中に転がり込んできた。

 坂東武者は頼朝をかつぎ、頼朝もそれに答えた。

 頼朝は絶対に坂東武者を裏切らなかった。坂東武者のために戦い続けた。
 大きな権力を得てからも、自分自身や一族の栄華よりも、坂東武者の新しい国の樹立を何よりも優先して、そのために後白河と真っ向から渡り合い、実の弟さえも切り捨てた。

 そして坂東武者も絶対に頼朝のことは裏切らなかった。
 250年前には朝廷に恐れをなし、自分たちのために立ち上がってくれた将門公を見殺しにしてしまったが、今度はひるまなかった。最後の最後まで死に物狂いで、文字通り「一所懸命」に戦い続けた。

 その結果、史上初めての、関東の政権、しかも、武士の、武士のための、武士による政権が他ならぬ鎌倉の地に誕生した。
 将門公以来の宿願が、ここについに果たされ、ついに関東は歴史の表舞台となったのだ。
 この頃の鎌倉は、一つの目標に向かってキラキラと輝いていた。


 しかし、
 頼朝という巨大な支柱が無くなると、ともに命がけで戦った仲間通しで、血で血を洗うような凄惨な抗争が相次ぐようになる。「青春時代」ゆえの悲劇。自分自身を抑えられない若者と同じように、欲望の赴くままの暴走。
 覇権獲得に牙を剥く北条得宗家。対立し、滅ぼされてゆく、かつて熱い仲間だった有力御家人。
 戦国時代に全国的に行われていたようなことが、狭い鎌倉を舞台に繰り広げられるのだから、たまらない。

 かくて鎌倉は、上記したような暗い歴史の街となった。


 武家社会の覇権をめぐり戦わざるをえなかった、「若い」鎌倉武者たち。

 彼らも人間だから、戦いに明け暮れる日々を見つめ、当然悩み苦しむ。

 夥しい鎌倉の寺院は、彼らが救いを求めた結果。
 鎮魂と救済の心は、他のどの時代、どの場所よりも切実で、それが形となったのが、鎌倉の社寺なのだ。
 鎌倉は、現在の仏教の中心となっている宗派の多くが、次々と誕生した時代でもある。


 そして誰よりも、信心深かったのが、他ならぬ頼朝。

 新たに産声をあげた武士の都の精神的な支柱として、先祖代々信仰し続けてきた武神を祀った鶴岡八幡宮および神宮寺二十五坊。
 奥州藤原氏と弟義経の鎮魂のための永福寺。
 非業の死を遂げた父の菩提を弔うための勝長寿院。
 
 鶴岡八幡宮以外は、すべて、歴史の波の中に消え去ってしまったけれど。

 今回の旅は、そんな頼朝の心を探す旅だったような気がする。




 
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