青年賢治さんの散歩道・中津川沿いに賢治の見た建物を訪ねる~賢治の青春の街モリーオ市再訪記2日目前篇
1月10日(日)
翌朝、
目覚めると、街は真っ白に変わっていた。
今年、盛岡は、例年に比べ雪が少なかったそうだが、9日から10日にかけてある程度まとまった雪が降った。
そばっちも真っ白に。

市内循環バス「でんでんむし」の一日乗車券を購入し、街歩きに出発。
まずは、若き賢治さんが、清六さんといっしょに下宿していたところ。
下の橋付近。
盛岡中学時代、決してまじめな優等生とは言い難かった賢治は、始め学校の寮にいたものの、やがて寮を追い出され、その後は北山(名須川)の寺町を転々としていた。
それから、さまざまな事情から1年浪人した後(そのあたりの詳細は後述)、盛岡高等農林学校に進学し、ちょうど盛岡中学に入学した清六さんと、この地で共同生活を始める。
下の橋は、盛岡城跡の南側を流れる中津川に架かる橋。
橋の傍には、賢治が使っていた井戸が今も残っている。
賢治清水と賢治詩碑。
「賢治清水」とあるから、「弘法大師の井戸」みたいなもので、賢治の「聖人化」もついにそこまで来たかと思ったら、単に賢治が使っていた井戸みたい。
下の橋のたもとにある簡素で美しい下の橋教会。
すぐそばの盛岡城跡は、青年賢治のお気に入りの散歩コースだった。
盛岡城跡。
美しい石垣
特に、下の橋教会付近から、石垣を眺めながら中津川沿いを歩くのが、好きだったという。
これから、中津川沿いに、賢治さんも見た歴史的建築群を訪ねてゆく。
宮沢賢治が盛岡中学に進学し、盛岡にやって来たのは明治42年、
折しもこの頃は、現在も残る盛岡を代表する近代建築が立て続けに完成した時期でもある。
賢治は盛岡がすさまじい勢いで近代都市に生まれ変わってゆく瞬間を、目の当たりにしていたわけだ。
あまり指摘されることが無いけれど、賢治の「ハイカラ好き」は、このあたりの原体験に基づくのかも。
賢治=自然というイメージがあり、決してまちがいではないが、賢治自身はそれとともに常に都会へのあこがれを胸に抱いていた。
以下、賢治に影響を与えた?名建築の内のいくつかをご紹介。
毘沙門橋
ここを渡ると、めくるめく歴史的建築ゾーン。
橋が極端に狭い上に、真ん中の雪が凍っていて、かなりこわい。
河原から、一本西の道に出ると、いきなり、この建築が現れる。
もりおか啄木・賢治青春館 (旧第九十銀行)
第九十銀行は、明治11年、南部藩士が中心になって設立された、地元資本による盛岡初の銀行で、この建物は明治末期にその本館として建設された。
現在は、盛岡市によって「もりおか啄木・賢治青春館」として生まれ変わり、親しまれている。
今回のシリーズ記事のタイトル、「賢治青春の街・盛岡再訪記」にぴったりの施設。
建物外観の割に広々とした、旧銀行ならではの趣のある内部空間(吹き抜けではないが、広々としている)等をうまく利用して、盛岡を中心にした啄木・賢治に係る展示が充実。
前回の記事で書いた「注文の多い料理店」の初版本も展示されている。
その他、これまた充実したミュージアムショップ、レトロな雰囲気の喫茶コーナーも、同空間に配置され、誰もが気軽に立ち寄り、くつろげる施設となっている。
金庫室をそのまま使った「光と音の体験室 スバル」というのもあった。
「盛岡城跡公園や石割桜などの盛岡の名所を、まるで銀河鉄道に乗った気分で5分程度の旅ができるスペース」(公式HPより)で、このような施設は、得てして最先端のハイテクを駆使したある意味あざとい物になりがちだが、こちらは手作り感満点の素朴さがとてもよかった。
この建物は、明治43年竣工。
賢治が(そして啄木も)通った盛岡中学卒業生の気鋭の建築家、横濱勉による、盛岡に現存する唯一の遺構。
横濱勉が東京帝国大学工科大学建築学科を卒業して司法省技師となった直後の作品で、自分の全能力を注ぎ込んで故郷にシンボリックな建築を、という若々しく清新な覇気が全体にみなぎっている。(盛岡銀行本館は、この建物が完成した翌44年に完成)
威風堂々として厳格なイメージの盛岡銀行本館(この後に登場)に対し、柔らかで美しい佇まいが魅力。
1階の常設展ももちろん見応えがあったが、
2階展示ホールで行われた、
第70回企画展
盛岡風景を愛し描きつづけた画家 小笠原哲二展
が殊の外すばらしかった。
印象派風の色彩豊かな筆致で、盛岡のおなじみの風景が鮮やかに表現されていて、何とも言えない郷愁が感じられた。

すぐ近くにある、
おでってプラザ・盛岡てがみ館
なぜか入り口にモンゴルのゲルが。
右は、いわて国体の花飾り。

第48回企画展
宮沢賢治を愛した人々
というのを開催していた。
手紙がずらりと並んでいて、賢治さんの書いた手紙だと思って読んだら、大部分は清六さんの手紙だった。
字がそっくりなので驚く。そう言えば、羅須地人協会の「下ノ畑ニ居リマス」の文字は、清六さんが賢治の文字をまねて書いたものだという。
この展覧会は、賢治自身の手紙、というより、賢治の作品に惹かれ、後世に残そうとした努力した人々の手紙が中心の展示会なのだった。
職員の方?が展示のポイントを熱心に説明してくださったので、思わず賢治話に花を咲かせてしまった。
そして、いよいよ、この建物が登場!これも、盛岡のシンボル。
岩手銀行旧本店本館。
完全なる辰野建築。
もはや説明不要。
中津川沿いを歩いていると、前方にその威容が見えてくる。
中の橋と岩手銀行旧本店。
プラザおでって・最上階(6階)の盛岡てがみ館からも、全体がバッチリ見える。
ふつうはなかなか見ることができない角度から。
ここは、穴場スポット。
岩手銀行旧本店本館(旧盛岡銀行本店)
おなじみ、辰野葛西建築事務所設計、明治44年竣工。
ちなみにこれは、前回ご紹介した旧九十九銀行本店竣工の翌年。
これほど近い場所に、これらの壮麗極まりない建築が次々と立ち並んでゆく様子は、さぞや見ものだったろう。
すさまじい勢いで近代都市に生まれ変わってゆく盛岡。
明治42年に盛岡中学に入学した宮沢賢治は、ちょうどそのありさまを、リアルタイムで目撃したことになる。
なお、辰野金吾と設計事務所を共同経営していた葛西萬司も、前回登場の第九十九銀行の横濱勉と同じく、盛岡の出身。
そもそもこの建物は、盛岡銀行本店として建設された。
その後岩手銀行の手に渡り、本店本館→中の橋支店として利用されたが、平成二十四に銀行としての営業を終了し、現在内部保存修理中。(外観は全体を見ることができる)
赤レンガに白い石の装飾、マンサード屋根にマサード窓、巨大ドーム・・・・。
これまで本ブログでも、いくつかのいわゆる「辰野式ルネッサンス建築」を観てきたが、
復元建築だったり(東京駅、こちらやこちら)、現状保存建築だったり(みなと元町駅)、模型(万世橋駅)だったりがほとんど、
これだけ完璧な形で現存する「辰野式ルネッサンス建築」は、意外なことに、おそらく今回が初めて、ということになるのではないだろうか。
(大阪のオペラ・ドメーヌ高麗橋や京都文化博物館別館もほぼ建設当時の形をとどめているが、これらは小規模だったり、ドームが無かったりする)
当然東京駅等に比べれば、規模は比較にならないほど小さいが、街の中心の角地に全く異なる巨大な塔が林立する堂々たる外観、「辰野式」のあらゆる技巧が凝縮したような変化に富んだ装飾など、決して東京駅にもひけをとらない「辰野式ルネッサンス建築」の代表と言ってよい。
残念ながら、内部は保存修理中に付き見学できなかった。
(今年の4月に開館予定)
賢治の詩碑。
文語詩「岩手公園」の最後のところ。
この部分だけだと、ただの状況説明みたいだが。
「岩手公園」は、賢治が最晩年に編纂した「文語詩稿一百編」(「文語詩稿五十編」に続き編纂)の二番目の詩。
これらの文語詩は賢治の晩年に集中して書かれたもの。この「岩手公園」がいつ書かれたものかはわからないが、盛岡銀行本店が賢治にとって日常的に常に身近に存在した建築であることは、この詩からもうかがえる。

建築と音楽、ということからすると、前回の第九十銀行がモーツァルトか、あるいはシューベルトを思わせるのに対し、こちらは、徹底的なしつこさ、みたいなところも含めて、文句なしにベートーヴェン、だろうか??
すぐ近くにある、葛西萬司の作品。
盛岡信用金庫本店 (旧盛岡貯蓄銀行)
昭和2年竣工、すでに辰野金吾は亡くなり、葛西萬司単独での設計。
こちらは典型的な列柱銀行建築。
明治後期の華やかな建築が立ち並ぶ道をさらに進んでゆくと、あちこちに町屋や蔵等が点在するようになり、街並みはもう少し古風な雰囲気を帯びてくる。
茣蓙九(現森九商店)。
江戸から明治の商家の佇まいをそのまま現在に伝える建物。
古き良き生活雑貨を販売するお店として、現役バリバリの建物。残念ながら、この日は休みだった。
複雑な地形のかなり大きな敷地上にさまざまな建物が並んでおり、通路側の正面と中津川側では、まったく異なる表情を見せる。
川沿いの風情は格別。

その他、川沿いの建物。
くもじいで紹介されていたもじゃ喫茶。ここも閉まっていた。
鮭が登ってくる川。白鳥も飛来する。
通りをさらに進むと、この建物の塔が見えてくる。
今回、最も見たかった建物の一つ。
紺屋町番屋。
大正2年に盛岡消防団分団の番屋として建てられた。
消防という重要な機能と典型的な木造洋風建築の意匠とを兼ね揃えた、注目すべき建築。
現在も使用?
与の寺橋と紺屋町番屋
上の橋の重要文化財の擬宝珠。
周辺には町屋風建築、蔵等が多い。

この記事へのコメント