「幸福な開拓者の共同体」のモーツァルト&ベートーヴェンにおける到達点~最近聴いたCDアーノンクール編

 引き続き、CDご紹介。
 もともと取り上げようと思っていたものですが、アーノンクールさんの追悼記事になってしまいました。

 アーノンクールさんのバッハやブルックナーについては、これまでたくさん書いてきましたので、ここでは、アーノンクールさんが晩年特に力を注いで取り組んでいた、モ-ツァルトやベートーヴェンを中心に。



 こちらは、アーノンクールさんのバッハ演奏の始まりと到達点。


▽ 昨年アーノンクールさんが引退した時に買い替えた、
  テルデック・バッハ教会カンタータ全集。
  
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▽ 最高のカンタータ録音(記事、こちら

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  ☆    ☆    ☆



 そして、演奏家としてのアーノンクールさんが最後に行き着いたところ。

 生前リリースされた最後の一枚。
 アーノンクールさんがわたしたちに遺してくれた遺産。メッセージ。


  ベートーヴェン 交響曲第4番、第5番

  アーノンクール指揮、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス


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 「運命」フィナーレのまるでシベリウスの5番みたいな終結部分等、あまりにも個性的な部分がちりばめられており、そればかりが話題になっている。
 確かに驚かされるが、ここはどう考えても、例えば4番の第一楽章、仰ぎ見るように雄大な推進力や、第二楽章の静謐なまでの美しさ、あふれるようなやさしさ、慈しみ、それらの圧倒的な完成度にこそ、驚愕し、無心に耳を傾けるべき。

 件の「運命」も、全体的みれば堂々たる大演奏だと思う。
 そして、それと同時に、亡くなる直前のアーノンクールさんの演奏家魂を雄弁に物語る絶好の例だと思う。
 フィナーレにおいては、ベートーヴェンがおそらく最も気合を入れて書いた木管のパートが、これほどまでに生き生きと雄弁に音ととして鳴り響いた演奏は、これまで無かったのではないだろうか。
 あの聴きなれたドイツ風の重厚な勝利の歌が、精神世界が炸裂したかのような、絢爛たる情景的な音楽として展開する。広々としたパノラマ的な情景。キラキラとまぶしくきらめき、鳥たちまでもが囀りまくっている。
 その途方もないエネルギーと緊張感は奇跡的にいつまでもいつまでも持続する。だからこそ、一音一音万感の思いを込めた、かみしめるような終結部が生きてくる。
 どんな優れた演奏で聴いても、どうしてもしつこく感じてしまっていたベートーヴェンならではの終結が、説得力を持って胸に迫ってくる。

 「運命」は言うまでも無く、あの「田園」とセットで初演されたベートーヴェンの意欲作。
 これまで絶対音楽の代名詞のようにされてきたが、苦悩を突き抜けて歓喜へ、闇から光へという音楽の流れは明らかだし、(心の動きとしての)バリバリの標題(プログラム)を有する「田園」と同じように扱ったとしても、決しておかしくはないわけだ。
 「標題音楽」として、情景を喚起させる「運命」。
 もちろんアーノンクールさんのことだ。作曲当時の聴衆の驚きを何とか現代によみがえらせたい、という気概もあったろう。
 クラシック音楽の中で最も演奏され尽くされ、絶対的とも言える固定観念が確立している「聖域」にまで、アーノンクールは確信を持って踏み込んでいった。
 もちろんこれが正しい演奏解釈だということを言いたいわけではない。正しい演奏解釈などはもともと存在しない。
 ただ、はっきりと断言できるのは、アーノンクールさんが、亡くなる直前まで、「幸福な開拓者の共同体」としての歩みを決して止めようとはしなかったということだ。
 そして、「幸福な開拓者の共同体」の一員であるわたしたちにも、いっしょに進んでゆこう!と声をかけてくれている。


 こうなると、交響曲全集をやはり聴いてみたかった。
 残念でしかたない。アーノンクールさんも無念だったろう。
 追悼記事にもちょっと書いたが、昨年予定されていた7番、8番のコンサートは実現したのだろうか。
 7番、8番、聴いてみたい。そしてその他の曲も。大曲ももちろんだが、1番、2番なんか、ほんとうに聴いてみたい。

 ただ、いずれにしても、アーノンクールさんの引退時の直筆メッセージに「今年のチクルスはこれまでと変わらず、私の意志通りに行われる」とある。ここで言う「今年のチクルス」というのがどこまでを指すかは定かではないが、この直筆メッセージにもあるように、「幸福な開拓者の共同体」はこの先も存続してゆくのだ。
 この先も、全集の行方に注目してゆきたい。


 アーノンクールさんはもういない。

 しかし、アーノンクールさんとわたしたちが共に築き上げてきた「幸福な開拓者の共同体」は不滅だ。
 壮麗たる音楽の大山脈とそこから広がる果てしない沃野を進み、切り拓いてゆく、我ら「幸福な開拓者の共同体」の冒険は、いつまでも続くのだ。



 次は、モーツァルトにおけるアーノンクールさんの到達点。

 以下、どちらも2010年代になってからの録音。



 晩年、アーノンクールさんは、たくさんのモーツァルトの録音を行い、もちろんわたしはその全部を聴いたわけでは無いけれど、
 その中で特に心惹かれたのが、これ。


 モーツァルト ピアノ協奏曲第23番、第25番

  ルドルフ・ブッヒビンダー(フォルテピアノ)、
  アーノンクール指揮、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス


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 手兵ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを率いての、満を持しての録音。
 ソリストは、ブッヒビンダー。アーノンクールさん、ムチャ振りしてフォルテピアノを弾かせてしまっている。
 しかし、何と言う華やかかつ雅やかなフォルテピアノだろうか。
 フォルテピアノというと、その音量もあって、どちらかというとストイックで寡黙な演奏のイメージがあったが、それを吹き飛ばすような豪華絢爛、しかも流麗な演奏。とにかくキラキラ、サラサラと流れるよう。モーツァルトの良いところが無条件に発揮されている。
 そして、それにからむオケの目も醒めるような鮮やかさ。
 協奏曲というと、大音量のモダンピアノと近代オケ全体の両者ががっぷりと四つに組んだ演奏が思い浮かぶが、この演奏は、フォルテピアノとオケの一つ一つの各楽器ががっぷりと四つにも八つにも、それ以上にも組んだ演奏。その楽しさ、美しさはただごとでは無い。
 モーツァルトを聴く愉悦、ここに極まる、という感がある。

 アーノンクールさんの指揮が、25番と23番で万華鏡のごとく変わるのもすごい。
 25番では、いつもの「アーノンクールらしい」溌剌として鮮烈な響き、
 23番では、打って変わって滋味深い、フォルテピアノを包み込むような響き。


 ところで、ピアノ協奏曲25番、アバドさんが亡くなる直前のアルゲリッチとのCDでも取り上げられていたことは記憶に新しい。
 わたしははじめ、モーツァルトのピアノ協奏曲には他にもすばらしい曲がたくさんあるのに、なんでまた25番を??と思ってしまったのだが、今ではその理由が何となくわかる気がする。
 単純に、とてつもなくいい曲なのだ。
 今回のこのブッヒビンダーとアーノンクールさんの演奏を聴いて、さらにその思いを強くした。
 少なくともカップリングされている23番に匹敵する名曲だと確信している。
 これまで聴いてきた演奏は、オーケストラをこれでもか、これでもか、と輝かしく鳴らしたようなものが大部分で、どうしても外面的な効果をねらった曲のようなイメージをぬぐえずにいたのだが、アバドさんやアーノンクールさんの丁寧で心のこもった演奏で聴くと、何と颯爽として、そしてまた美しい曲なんだと聴いていて胸がいっぱいになってしまうほど。
 このようにその音楽の真の姿を浮き彫りにしてゆくことも、「幸福な開拓者の共同体」の「活動」なのだ。 



 The Last Symphonies

 MOZART’S INSTRUMENTAL ORATORIUM

 モーツァルト 交響曲第39番、40番、41番


  アーノンクール指揮、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス


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 以前、CDショップの試聴コーナーで、41番のフィナーレをちょこっと聴いて衝撃を受けたもの。
 その時はモーツァルトのシンフォニーのCDをわざわざ購入することに抵抗があり、そのままにしておいたが、アーノンクールさんのほとんど最後期のCDの一つとなってしまったので、購入。


 教会のように豊かな残響の録音。(ムジークフェラインザールとのこと)
 しかも総体的には快速調の演奏にもかかわらず、一つ一つの楽器の音、一つ一つのモチーフがくっきりと鮮やかに浮き上がって聞こえ、それが「交響」して音楽が突き進んでゆく醍醐味は、他の演奏ではなかなか体験でいない。
 アーノンクールさんが、生涯をかけて追い求めてきたのは、正にこの「体験」なのだ。独特のアーティキュレーション、アゴーギクやディナーミクなどなど・・・・、いまだにそれらのことばかりが言われるが、そんなことは目的のための手段にすぎない。

 41番「ジュピター」は、CDまるごと一枚、40分に及ぶ、ベートーヴェンのシンフォニーにも負けない壮大なドラマとして表現されている。何だか言い古された言い方だが、まごうこと無く壮大なドラマなんだからしかたない。
 もっとも、40分という時間には、反復されていることもあるのだが、何という必然性のある反復!
 そのクライマックスに、フィナーレのフーガがやってくる。このフーガが、こんなにも鮮烈に、あたかも実際の合唱曲のフーガのように表現されたことは、かつて無いのではないだろうか。それほど41番のCDを聴いたわけでは無いんだけれど。

 39番も40番も、それぞれの曲が有するイメージ通りの態様をきちんととりながらも、宗教的な、いや、もっと無邪気で根源的な、例えば神話の中のドラマチックな情念みたいなものを迸らせている。
 始めから終わりまで聴きどころ満載なのだが、
 39番の始まり、まるでバロックのオーバーチュアを思わせる颯爽とした超快速序奏の後、一呼吸置いてたっぷりとしたテンポで奏される第一テーマ、柔らかフワフワした雲に包まれて、プカプカ空に浮かんでいるような感じ、(これはバッハのカンタータなどでおなじみのもの)
 40番、1~3楽章が疾走するようなテンポで一気に奏された後、悠然と展開されるフィナーレの圧倒的な「ドラマ」、
 これらはすべてかけがえの無いものだ。


 というわけで、何という「ドラマティック」な三大交響曲!
 しかも、全体を大きな流れが貫いている。

 このドラマ性が、もともとモーツァルトに備わっていたものかどうかは知らない。
 アーノンクールさんは、例によってごちゃごちゃと言葉を並べて3大交響曲は一つのオラトリオなのだ、というようなことをおっしゃっているが、このドラマ性こそが、INSTRUMENTAL ORATORIUMというアルバムタイトルの由来なのだろう。
 そういう意味では、冒頭にあげたベートーヴェンの演奏とも近しく、あの第5などは正しく、ベートーヴェンのINSTRUMENTAL ORATORIUMなのだと思った。
 こうなると、ますますベートーヴェン全集が聴いてみたくなってしまう。


(参考)


 最近は、CDでモーツァルトのシンフォニーをしっかりと聴く機会など皆無だったので、(ライブでは、ネゼ=セガン&フィラデルフィア管の41番を聴いたけれど)
 勉強のため定評のあるCDを聴いてみました。


 モーツァルト 交響曲集

  カール・シューリヒト指揮、パリ・オペラ座管


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 50年以上前の演奏、録音になるが、この頃のものにしては、個々の楽器が薫り高く響き、とても生きている。
 当時の者としては、傑出した演奏だと思う。
 
 ただやはり、録音のせいか、オケがどうしてもべたっとした単純な一つの楽器として聞こえてしまう。
 もっともこれだけ完璧に統率していること自体大変なことだと思うが、個々の楽器が独立してしっかりと生きて、それが集まって一つの大きな「楽器」として機能することの重要性、それを聴く喜びを、今となっては、我々は当たり前のこととして受け止めるようになった。
 
 このCDを聴くと、指揮者の強烈なカリスマ性というか、「雰囲気」はびしびし伝わってくるのだが、おそらくわたしが聴いている機械がしょぼいこともあるのだろう、すべての音がくっきりと心に突き刺さって来ない。やはり作曲家の書いた音がみんな聞こえてこないと、かんじんの作曲家の顔が100%見えてこない。
 このような歴史上の指揮者に関しては、生の演奏を聴いてみたかった。



 おまけ、


 アーノンクール ブルックナー交響曲選集(3番、4番、7番、8番)


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 20世紀の終わりに録音され、センセーションを巻き起こしたテルデック TELDEC(Warner Classics)のブルックナー録音を集成した選集。
 リリース当時、一枚一枚わくわくしながら購入したので、すべて家のどこかにあるはずだが、4枚組で何と1500円だったので、新しく購入しておくことにした。
 やはり、いい。今聴いても胸が高鳴る。
 21世紀になってから、RCAレーベルにウィーン・フィルと録音した5番と9番が名盤中の名盤だが、これらの4曲も、かけがえの無い価値を持つ。

 3番、4番がロイヤル・コンセルトヘボウ管、7番がウィーン・フィル、8番がベルリン・フィルという振り分けも魅力的。



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▽ テルデック・ブリュッヘン・エディション

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 レオンハルト、アーノンクール、ブリュッヘン、
 この3人の競演がたくさん収録されているこの選集から、
 今こそブリュッヘンとレオンハルトの奏でるBWV106のソナティーナを聴こうと思う。

 すべての始まりでもあり、すべてが還るところでもある。

 まるで、レオンハルトとブリュッヘンが、アーノンクールをやさしく迎え入れるかのようだ。


 もっとも、例えば、冒頭に掲げた有名なテルデック全集、さもレオンハルトとアーノンクールが力を合わせて造り上げたようだが、二人は決して共演しているわけではない。
 このブリュッヘン・エディションの白眉とも言える11枚目のバッハ編でも、ブリュッヘンとレオンハルト、ブリュッヘンとアーノンクールの共演はもちろんあるのだが、レオンハルトとアーノンクールは一度もいっしょに演奏していないのがおもしろい。
 バッハ以外の他のCDではたくさん共演しているんだけど。

 今頃、3人でバッハを演奏しているだろうか。





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この記事へのコメント

2016年03月13日 10:25
ご無沙汰しております。
逝ってしまわれましたね。
「田園」聴いてみたかったです。
公式HPのトップ画面、チェロを抱えたままでソファに寝そべっている写真が何とも泣けます。というかこの人、最後までチェリストだったのか。
バッハ全集をあらためて聴きました。BWV1、リヒターとかBCJに比べると腑抜けた演奏だなと思っていましたが、こうなってみるとその素朴さに泣けます。
デヴィッド・ボウイもジョージ・マーティンも、と最近なぜこんなに、とやるせない気持ちです。ボウイの時に、時代的にそういう時代なのだから、と腹をくくったつもりだったけどいざ相次いでみると結構こたえます。
2016年03月13日 22:13
 たこすけさん、どうも。
 とうとう逝ってしまわれました。

> ご無沙汰しております。

 恩師の葬儀に出席する同級生状態ですね。
 デビッド・ボウイにも驚きましたが、ジョージ・マーティンまで。ジョージ・マーティンなど正直最近はどうしているのか知らなかったのですが、この人がいなかったら現在の音楽界はまったく異なるものになっていたわけで、心からの感謝とともに、追悼の意を表したいと思います。
 それにしても、わたしたちの世代において当たり前のように存在してくれていた人たちが次々といなくなってしまいますね。さびしい限りですが、まあ、それだけわたしたちも歳をとってきたということで、おっしゃる通り、腹をくくるしかないような気がします。

 この人がいなかったら現在の音楽界はまったく異なるものになっていた、と言えば、アーノンクールもそうですね。今回50年前の名演奏と聴き比べてみましたが、50年前には豪華絢爛ではあるけれど黄昏の時代を迎えつつあったクラシック音楽が、21世紀の現在においてもまだまだ新しい発見と興奮が続く刺激的な芸術として生き続ける道を示してくれました。

 特にアーノンクールさんの場合、亡くなる直前に引退したとは言えバリバリの現役だったし、何よりもファンのことをとても大切にするライブの人で、しかも実際に感動的なライブを聴いていますから、亡くなったショックはけっこう大きかったです。
2016年03月13日 22:14
> 公式HPのトップ画面

 これ、いい写真ですね。かなり古い写真なのではないでしょうか。
 アーノンクールさんは、CMWを立ち上げてからも、本格的にカンタータ全集を開始するくらいまでは、10何年もの間普通にウィーン交響楽団のチェリストを続けていましたから、ご自分がチェリストだという意識はかなり強かったと思います。
 レオンハルトさんもそうでしたが、低音がしっかりとした音づくりをするところなどは、その影響もあるような気がします。

 長々とすいません。かなりダメージが大きかったもので。

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