木霊の宿る仏像たち 「平泉~みちのくの浄土~」展~お気に入りの仏像・特別編

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 3月22日(日)


 特別展 平泉 ~みちのくの浄土~ at 世田谷美術館

        ~4月19日(日)まで



 世田谷美術館、用賀の駅から歩くとけっこう遠いのですが、
 かなり前に行った時は、ルソーのお猿のポスターが、要所要所に貼られていて、道案内をしてくれました
 今回は、阿弥陀如来様御一行がお迎えしてくださってるので、まず迷うことありません。(写真左)


 この展覧会のちらしには、

  世田谷に お花見行ったら みちのく参り 

 というキャッチ・コピーが書いてあります。

 世田谷美術館に向かうプロムナードは桜並木ですし、美術館のある砧公園は、都内でも有数のさくらの名所なので、今週末にかけて、おでかけになると、最高なのではないでしょうか。

 ちなみに、わたしが行った時は、まだ桜が咲いてないばかりか、冷たい雨の日で、こんな感じでした。(写真右)
 寒っ!
 

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 中尊寺金色堂西北壇 阿弥陀三尊他諸仏

 有名な中尊寺金色堂には、中央+左右の3つの須弥壇があり、それぞれの壇に、阿弥陀三尊+六地蔵+持国天、増長天の計11体、(実に不思議な組み合わせですが)
 全部合わせると、11×3の計33体にもおよぶ光輝く仏像が、所狭しと並んでいます。
(実際には西南壇の増長天は失われているため、32体。なお、西南壇の本尊も、盗難にあって欠落していたのを、他の仏像を移して補完したもの)
 今回は、そのうちの西北壇(向かって右側)の11体の仏像が、まるごとそのままの形で展示されています。

 各壇の仏像は、大きさ、形とも、ほとんどいっしょ。展示パネルによれば、なぜかこれまで入れ替えられたりもしているようなので、そういう意味では、中央壇の仏像でないからといって、見劣りするということはほとんどないと考えていいと思います。

 金色堂は何度か行ったことがありますが、上記のようにおびただしい数の金ぴかの仏像が、文字通り光り輝くお堂、豪華絢爛な内部装飾と一つになって、あまりのまぶしさに、一体一体じっくり拝観するという感じではありませんでした。
 近くには寄れませんし。

 それが今回は、ガラス・ケースの中ではありますが、目の前で、四方から、ゆっくりと拝観することができます。
 このような機会はあまりないのではないでしょうか。 
 
 実際に見てみると、これらの仏像、意外と小さいです。
 そもそも金色堂自体が建物と言うより、ちょっと大きな工芸品みたいなものなので、当然かもしれません。
 また、きれいに残っている金箔も含めて、その姿は実に気品があり、美しいのですが、あまりにも整いすぎていて、一体一体の印象は薄いかもしれません。



▽ 入り口付近に置かれている金色堂模型。
  それほど大きくないが、5分の1の縮尺模型なので、実物もこれの5倍の大きさでしかない。
  (これのみ撮影可)

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 インパクトという点では、平泉とは直接関係無いにもかかわらず、なぜか、東北各地から集められた、

 みちのくの仏たち

 が、圧巻!!!!


 中尊寺金色堂の部屋を後に、奥の次の部屋に入ったとたん、思わず息を飲み、立ち尽くしてしまいます。

 がらんとした広い部屋の四方に、ずらーっと立ち並ぶ、仏たち。
 
 今見てきたばかりの中尊寺阿弥陀像などに比べ、あまりにも巨大で、あまりにも異形。
 ちょっと軽々しく言葉を発するのもはばかられるような、雰囲気。
 原初的な霊気とでも言ったらよいのか。ちょっと怖いほどです。

 本尊でなく、脇侍のみの展示なども多いのですが、本来、広大な東北中をまわらなければ拝観することができない、みちのくならではの魅力を持っためずらしい仏像の数々、その代表的なものを、いっぺんに拝観できるのですから、なんという幸せ!

 「平泉展」のテーマからは大きくはずれている気もしますが、このみちのくの仏像たち、絶対にオススメ

 必見です。


 全体的な特徴としては、ほとんどの仏像が、巨木の一本造り、また、そうでなくても、一材製である、ということがあげられます。

 しかも、たいていが霊木を彫ったものなのでしょう、もとの樹の状態をなるべく残すためか、わざわざノミ目を強調する彫り方をしていたり、(鉈彫り)
 木目がはっきりとわかる彫り方をしています。

 入り口のすぐ近くに並ぶ3体の巨像は、どれも、まるで埴輪のような、原初的で極めておおらかな表情をしていて、しかも他にあまり類例が無いような風体をしており、
 本来何か別な神として彫られたものが、観音像などとして、現在に伝わっているのかもしれません。
 つまり、

 霊木→神像→仏像

 と、メタモルフォーゼを遂げた像、ということ。


 特に、中央の、

 天台寺 聖観音立像

 は、カツラの霊木から掘り出され、全身に幾何学模様のようなノミ目を残す、鉈彫り像の名作として名高いもの。

 カツラの霊木の根元に湧く霊泉、「桂清水」への信仰とも関連しているらしく、「桂泉観音」として、信仰されています。

 下のちらし裏側、2段目左側の仏像。クリック+拡大してご覧ください。


 そして、それらの個性的な仏像群の中で、特に美しく、印象深いのが、部屋に入って右側にある、

 成島毘沙門堂の伝吉祥天立像

 でしょう。

 ケヤキの一本造りの、2メートル近い巨像。

 全身に、自然の作った最高の幾何学模様とも言える、精緻で流れるような木目がはっきりと残り、
 その樹木のおおらかな感触が、ふっくらとやさしい表情や体つきと相俟って、見る者に何とも言えないあたたかな印象を与えます。
 まるで、内側に灯るオレンジの炎が、やさしく放射されているかのよう。

 この仏像も、ある意味異様な姿をしています。

 頭には、2頭の象が向き合った冠をかぶり、もとは、18本の腕を有していたとのこと。

 少なくとも、こんな吉祥天はいません。

 毘沙門天の隣にまつられているため、吉祥天と呼ばれているのでしょうけれど、むしろ、吉祥天のルーツ、ヒンズーのラクシュミーに近い姿かも。


 さて、というわけで、この吉祥天像自体、たいへん魅力的なのですが、

 この像のある、

 成島毘沙門堂の本尊 毘沙門天立像

 こそ、みちのくの仏像の王とでも言うべき存在です。

 地天を含めると4メートルをゆうに超える巨像ながら、何と、ケヤキの一本造り。
 いったいどれほどの巨木を使ったというのでしょう。

 当然、今回の展覧会には来ていませんし、わたしもまだ見たことありませんが、
 脇侍の吉祥天からしてこのすばらしさ、
 いったいどれほどの仏像なのか、見てみたいみちのくの仏像、No.1です。


 そもそも、東北地方(特に岩手)は、坂上田村麻呂の昔から、毘沙門天の王国ともいうべき土地柄。

 この展覧会には、上記の成島毘沙門堂、立花毘沙門堂とともに、3大毘沙門堂に数えられる、

 藤里毘沙門堂の本尊 毘沙門天立像

 が来ています。

 この像も、異人のような顔つき、赤黒い体、なかなかの迫力です。


 その他、東北の仏像を見ていて、気づいたのは、
 毘沙門天像や四天王像においては、大きく腕を振り回している着物の袖が派手にひるがえり、まるで斧のよう
 に見えること、
 観音像などの静かな像においては、口を妙にすぼめているものが多いこと、
 全体的に、おなかが不自然なまでに、ぽっこりとふくらんでいるものが多いこと、
 などなど。

 他でははなかなか見られないユニークな特徴が多いので、ぜひご自分の目で確かめてください。



 その他の展示では、やはり、国宝・中尊寺経(紺紙金銀字一切経(現在は大部分を金剛峰寺所蔵)ほか)が、一見の価値アリ。

 金字、銀字で書かれた経典の美しさはもちろん、
 やはり金銀泥でさらりと描かれた扉絵が(経文の内容に則した挿絵的なものが多い)、またひときわ美しく、何だか不思議な絵がたくさんあっておもしろい。
(冒頭に載せた絵です)

 
 そして、国宝・宝塔曼荼羅図。
 10層の宝塔のまわりにさまざまな仏像などが描かれたものだが、よく見ると、この宝塔、びっしりと細かい文字によって形作られていて、びっくり。



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 また長くなってしまいました。

 以下、「平泉王国」の戦乱と平和の歴史について。
 さらに長くなりますので、お時間のある方だけ、どうぞ。



 この展覧会では、平泉に関する、実にさまざまな分野にわたる膨大な資料が、要領よく展示されていて、
 一回りすると、平泉の歴史から現状までのあらましがつかめるようになっています。


 その最初に掲げられているのが、次の文章。


 中尊寺建立供養願文(部分)

 二階鐘樓一宇、
 懸廿鈞洪鐘一口、

 右、一音所覃千界不限、抜苦興樂、普皆平等、
 官軍夷虜之死事、古来幾多、毛羽鱗介之受屠、過現無量、
 精魂皆去他方之界、朽骨猶為此土之塵、
 毎鐘聲之動地、令冤霊導浄刹矣、



 (大意)

 二階建ての鐘楼、一棟に、
 重さ二十鈞の洪鐘、一口をお懸けいたします。

 この鐘の一音(いっとん)は、千界を超えて響きわたり、(仏の慈悲をもって)普く皆平等に、苦を抜き、楽を興します。
 官軍、夷虜(敵味方)の区別無く、古来どれほど多くの者が、戦禍によって命を落としたことでしょう。
 毛羽鱗介(獣鳥魚貝)の命を絶たれたものにいたっては、その数無量です。
 それらの精魂は、皆、ちりじりに他方の界に去り、骨だけが朽ちて、なおこの世の塵となっています。
 この鐘の音が大地に響きわたるごとに、命を奪われしものたちの悲しい霊が、浄土に導かれますよう。

                                        以上、Nora 超訳


 これは、藤原清衡の依頼により、京の文筆家、藤原敦光が書いたもの。
 現存するのは草稿の段階のものだが、それだけ、清衡の思いが強く反映されている気がする。


 平安時代後期の東北は、坂東よりもさらに先の辺境の地、大小さまざまな豪族同士の争いが絶えず、それに中央の征夷軍の武将などがからんで、さんたんたる有様、正に暗黒時代でした。

 中央藤原氏の流れをくむとは言え、一豪族にすぎなかった清衡も、さまざまな争いに巻き込まれ、
 一族郎党を守るため、死に物狂いで次々と戦いを切り抜けていくうちに、有名な八幡太郎義家の力添えなどもあって、
 気がつくと、いつのまにか、彼は、みちのく最大の豪族となり、彼に口出し出来る者は誰もいない状態になっていました。

 しかし、それまでに、彼はあまりにも多くのものを失った。
 父を失い、最愛の妻子を失い、弟とも血みどろの争いを繰広げた。
 清衡は、阿弥陀如来を中心とする仏都、現世の浄土とも言える都を建設することを決意し、その目的のために残りの人生を捧げます。


 彼が目指した阿弥陀浄土とは、はたしてどのようなものか。

 「無量寿経」によれば、遠い昔、法蔵比丘という修行僧がいました。
 彼は、釈尊と同じくインドの王子でしたが、苦しみの絶えることない衆生を救うべく、王位を捨てて修行僧となり、48の大願を成就させることを誓いました。(48の誓願)
 彼は、衆生救済のために、五劫という気が遠くなるほど長い間苦しい修行に耐え抜き、ついに48の誓願すべてを成就させて、阿弥陀如来となり、西方浄土の教主となりました。
 ちなみに、五劫というのは、落語「寿限無」に登場する「五劫のすりきれ」で有名。
 一劫は、3千年に一度下界に下りてくる天女の衣が岩をなで、それが積み重なって岩が擦り切れてなくなってしまう期間。
 五劫とは、それ×5ですから、ほとんど無限とも言える期間ということになります。

 つまり、阿弥陀浄土とは、衆生のかわりになって果てしない苦行を受けた阿弥陀如来自身によってもたらされたものなのです。

 この阿弥陀浄土こそ、清衡が目指す理想郷として、最もふさわしいものでした。

 彼は、みちのくの地に、現世の人々が平らかに安らかに暮らせる、地上の阿弥陀浄土を、何とか作り上げようとしたのです。

 その「みちのくの浄土」の都こそが平泉、そのシンボルとなるのが中尊寺に他なりません。


 上の願文は、
 御上(白河法皇)のご威光のおかげで、みちのくは戦も無く、平和そのものなので、ご安心ください、
 というような内容で結ばれています。

 これは、あからさまな皮肉で、
 みちのくの平和はわたしが守るから、口出しは無用、
 という清衡の強い決意のあらわれのような気がします。

 清衡は、この願文の中で、中尊寺建立は、「鎮護国家のため」である旨、何度もくりかえしています。


 その意志は、2代基衡、3代秀衡へと引き継がれ、
 みちのく東北に、平安末期のこの時代にしては奇跡的とも言える、平和と繁栄がもたらされました。
 これが、世に言う、平泉王国です。


 その後、源頼朝が、平将門公以来の宿願を果たして、坂東武者の独立政権を樹立しました。
 その基礎を揺るぎ無いものとするためには、平泉独立王国の存続を認めるわけにはいかず、頼朝は、秀衡が亡くなるのを見届けてから、めずらしく自ら30万近い大軍勢を率いて、奥州に向かいます。
 常に鎌倉にあって、御家人を手足のごとくに動かし、武家政権樹立を実現してきた頼朝にしては、実に異例のことです。
(自らが出陣したのは、挙兵後の一連の戦い以来)

 頼朝は、義経のことはともかく、平泉については吸収合併に近い形で落ち着かせようとしていたのではないか、とわたしは思います。
 必要以上の30万という軍勢は、もちろん、東日本全土に鎌倉の威光を示すためと思いますが、
 平泉の戦意を完全に喪失させる狙いもあったのではないでしょうか。

 これに対し、4代目の若き当主泰衡は、父秀衡が命をかけてかくまった義経を殺害して頼朝に命乞いをし、そのどっちつかずの態度に頼朝が激怒したことを知ると、清衡以後三代にわたって大切に築き上げてきた平泉の主要な建物に火を放って逃亡する、という愚挙に出ます。

 平泉に入った頼朝は、黄金の都と伝え聞いていた平泉が灰塵に帰したことを嘆き悲しみ、
 残された中尊寺等を見て、心から感銘を受けたと言われます。


 頼朝が鎌倉に建てた寺院(勝長寿院、永福寺等。すべて現存せず)は、京都ではなく、平泉を範としたものであり、
 頼朝が打ち建てた幕府政治、つまり、
 自らの公的立場をあくまでも朝廷配下の一武将と位置づけ、実質的に武家の頭領として全国支配をする、
 という画期的な政治システムも、平泉王国にならったものとも考えられます。
(三代秀衡の官位は、鎮守府将軍だった)

 徳川幕藩体制下の、江戸300年の泰平のルーツは、平泉にあった?


 
 平泉に関する貴重な展示を見て、今は幻となった平泉の都に思いを馳せるのもいいかもしれません。

 冒頭で、中尊寺金色堂の阿弥陀像等について、印象が薄い、というようなことを書きましたが、以上のようなことを踏まえて、改めて仏像に接すると、またちがった感銘を受けるかも。



 公式HP



そのほかの「記事目次」

「全体記事目次」

カンタータ日記・奥の院

浅田真央さん情報・最新版

宮沢賢治記事目次

カンタータ日記・大阪モダン建築図鑑

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この記事へのコメント

2009年04月03日 08:28
奥州平泉の歴史は初めてと言っていいくらい、勉強になりました。
西北壇が向かって右側ということは北に向いているということでしょうか。
本に載っている印象しかないので32体という圧巻が考えられません。
先だっての仏像100選で、東北のがありましたが、こんな印象でした。
ご丁寧な説明ありがとうございました。
2009年04月04日 02:56
 tonaさん、こんばんは。
 ていねいに読んでくださってありがとうございます。

> 西北壇が向かって右側

 実際に確かめたわけではありませんが、金色堂も阿弥陀堂ですから、真東を向いて建っているものと思われます。
 阿弥陀如来は西方浄土にいるとされますから、阿弥陀如来をはじめとする仏像は皆、西側にいて、東側にいるわたしたちの方を向いているわけです。
 それならばなぜ、中央壇の向かって右の壇が北壇ではなく「西北壇」なのかというと、中央壇の右奥、つまり西北の方向にあるからです。
 従って反対側の、向かって左側の壇は、東南壇でなくて、やはり左奥の「西南壇」ということになります。
(→右URL欄参照→)
 説明が足らずに、申し訳ありませんでした。

 東北の仏像は、あまりなじみがなかったのですが、なかなかおもしろかったです。また、行ってみたくなってしまいました。
かげっち
2009年04月04日 21:27
世田谷美術館!個人的にとても懐かしい想い出がある場所です(内緒)。
東京はいろんなもの見たり聴いたりできて、うらやましいです。

明日から受難週なので、きょうは朝から二度に分けてマタイを全曲聴きました。CDプレーヤーが不調なので、30年近く前に知人がテープに取ってくれたリヒター+ミュンヘンバッハを選びました。その知人を懐かしむ思いもあって。当時は「勿体をつけないあっさりめの演奏」だと思っていたのですが、いま聴き直すとテンポの揺らしや音色の切替えなどでけっこう芸の細かいことをやっているのだと思いました(悪い意味ではありません)。
2009年04月05日 16:59
Noraさん、わざわざきれいなわかりやすい図を作っていただいてありがとうございました。お忙しいのにすみませんでした。
とてもよくわかりました。

今善光寺がご開帳だそうですね。
この期間の経済効果が1000億円以上とかで驚いてしまいました。
ちょっと遠くて出かけられません。
2009年04月05日 21:02
 かげっちさん、こんばんは。
 世田谷美術館は、公園の中の美術館で、なかなかいい雰囲気ですね。
 今週末あたりは、桜も見ごろだったのではないでしょうか。

 マタイ受難曲、全曲聴かれましたか。
 30年前のカセットとは、すごいですね。
 マタイなどは長いので、カセットだと、録音するのも、聴くのも、たいへんなのではないでしょうか。でも、それだけ昔は、大切に聴いていたような気もします。
かげっち
2009年04月05日 21:07
Noraさん、こんばんは。
カセット4本に分けて録音されています←マタイ
例のコラールを聴かない(歌わない)と、受難週が来た感じがしません。
2009年04月05日 21:34
 tonaさん、こんばんは。
 説明がヘタで、文章を読み返しても、さらにわけわからなくなりそうだったので図を書いてしまいました。
 これは例によって、ペイントのソフトを使用しています。すごく簡単なで、まったく時間がかかりません。

 善光寺、今日からのようですね。
 この善光寺や浅草寺などは、本尊は絶対秘仏なので、御前立本尊のご開帳になりますが、それでも大騒ぎになるのだからたいしたものです。
 昨年、わたしも浅草寺ご開帳の時に、御前立本尊と結ばれた紐を持って参拝しましたが、(結縁)
 たくさんの人が熱心にお参りしているのを見て、何だか温かい気持ちになりました。
2009年04月10日 10:05
 かげっちさん、おはようございます。
 早いもので、もう受難週になってしまいましたね。
 昔、150分テープというのがあって、この1本にマタイを全曲入れて、(メンゲルベルク盤。あれ、少し省略があるので、だいたい入るのです)旅行に持っていきましたが、何度か聴くうちにすぐにテープがびろびろになって、ビブラートがさらに激しくなってしまいました。

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