青春の鎌倉再訪記’11冬~金沢文庫で運慶展を見た後、朝比奈峠を超えて梅の香漂う十二所へ

 引き続き、「2月のアルバム」を続けます。
 今回は、2月13日(日)に鎌倉に行った時の記録。
 鎌倉将軍家に直接関わる、2つの名仏像が登場します。

 意外なことに、今や鎌倉には、鎌倉将軍家と直接関わる寺院や仏像はほとんど残されておらず、そういう意味でも貴重な仏像。



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 今回の一番の目的は、鎌倉の西側、金沢八景の金沢文庫で行われていた運慶展でした。


 特別展 運慶 -中世密教と鎌倉幕府- @ 金沢文庫 (~3月6日(日)まで)


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 快慶大好き!のわたしとしては、運慶はあまりにも完璧すぎてちょっと苦手な上に、すでに見たことのある仏像も多かったのですが、
 湛慶との親子共作の愛知・滝山寺の帝釈天立像を見ることができたのは、大収穫でした。

 彩色が鮮やかに残っていて、帝釈天なのに、優美極まりない、文句無しにすばらしい仏像。
 滝山寺の、名高い観音菩薩三尊像の脇侍で、これは、もう一方の脇侍が梵天というめずらしい三尊像。
 頼朝のいとこの僧・寛伝が、頼朝の3回忌に、頼朝をしのんでその供養のために運慶親子に作らせた、と伝えられているもの。

 中尊の観音菩薩像は、記録によれば、頼朝自身の鬢と歯を体内に納めた、(これはX線検査で確認されている)頼朝の等身像ですが、
 武家の大頭領の姿を写す仏像としては、やはり観音菩薩よりは帝釈天の方がふさわしい気がするので、
 わたしは密かに、この帝釈天こそが頼朝の姿に近いのではないか、と思っています。
 この像だけ、美しい金泥仕上げだし。

 もっとも、実は、この3体、とてもよく似ており、上記の通り、彫刻史上並ぶものが無いほど写実の技法を極め、しかも頼朝と実際に面識のあった運慶のこと、頼朝、おそらくはほんとうにこんな顔をしてたんだろう。
 例の頼朝像であることが怪しくなった神護寺の伝源頼朝像よりも、ずっと頼朝自身の面影を伝えているかもしれない。

 なお、この帝釈天像、一見して、東寺のあのイケメン仏として名高い帝釈天像をそのまま立たせた姿であることがわかる。
 他ならぬ東寺復興に尽力した、頼朝の等身像、
 しかも、仏舎利発見というオマケ付で見事その実際の作業を完遂した、運慶による作品、
 さらに、復興なった東寺立体曼荼羅の帝釈天が、そのまま立ち上がったかのようなその姿、
 すべてが丸い一つの円につながるような、見事な来歴を有する稀有の仏像だと思う。

 頼朝好きのわたしとしては、正に特別な仏像。
 運慶はそれほどでもないけど、湛慶はもちろん好きだし。

 以上、ちょっと偏った「運慶展」の感想でしたが、
 「彫刻」としては、それこそ世界でも類例の無いレヴェルに達しているすさまじい仏像が勢ぞろい。
 このような機会はめったにないと思います。
 必見!の展覧会。

 今週末、3月6日(日)まで開催。興味のある方は、ぜひ。


 奥の院の運慶展の記事。こちら
 


▽ 称名寺に伝わる個性的な仏像たち(金沢文庫の過去のポスターから)

  左の称名寺本尊、秘仏・弥勒菩薩立像の摸刻像を、金沢文庫で拝観できた。

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 金沢文庫の裏手の隧道から、直接称名寺の境内に入ることが出来る。
(右写真は中世の古い隧道。現在はきれいなトンネルが整備されている)

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 金沢山 称名寺


 トンネルをぬけると、眼前に広々とした浄土式庭園が広がる。

 武士の都・鎌倉に浄土式庭園は似合わないと思われるかもしれないし、事実、これが鎌倉周辺に現存する唯一の本格的浄土式庭園だが、(光明寺などの庭園は、厳密には浄土式庭園とは多少異なる)
 そもそも、頼朝が平泉にならって建立した鎌倉最初の大寺院、二階堂永福寺も、美しい浄土式庭園を有していた。

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 やたら巨大な仁王象が閉じ込められている?三門

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 釈迦堂

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 金沢八景


▽ 上のトンネルの壁面には、広重の金沢八景の浮世絵が展示されている。

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 今では、八景島シーパラなど、レジャー施設で知られる金沢八景だが、この広重の絵にあるようなかつての風景を求めて、海側の「海の公園柴口」駅から、シーサイドラインで金沢八景駅まで行くことにした。


 金沢海の公園・なぎさ広場
 はるか対岸に八景島のシーパラが見えるが、松原の雰囲気自体は、驚くほど絵と同じ。

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 シーサイドラインの車窓から

 正面、シーパラだが、手前には海苔の養殖みたいなのが見える。
 昔、和ヶ江島のあたりでよくやってたが、今でもやってるんだろうか。

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 瀬戸神社の弁天島

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 奥の院の称名寺および金沢八景の記事。こちら



 この後、せっかくなので、
 バスで朝比奈峠から鎌倉に入り、金沢街道の金沢寄り、十二所あたりの、鎌倉の中心からはちょっとはずれているため、ふだんなかなか行く機会がないお寺に寄ることにした。


 昔わたしがよく鎌倉を訪れていた頃、
 十二所、朝比奈周辺の山間部、番場ヶ谷などは、まだまだ原生林などが残されていて、「鎌倉の秘境」などと呼ばれており、
 その入り口である十二所あたりは、畑の中に茅葺屋根が点在するような、鄙びた感じが何ともいえない美しい田園地帯で、
 その中心に佇む明王院や光蝕寺などの小さなお寺には、いかにも「日本のふるさと」という趣があった。
 今回、十二所を訪れたのは、近年都市化の波が全域に及ぶ鎌倉の中にあって、これらのお寺に、そうした古い面影がどの程度残されているのか、実際に自分の目で確かめるために他ならない。

 さすがに少々心配ではあったが、結果は、以下の写真でもおわかりのとおり、古きよき昔日のまんまで一安心。
 むしろ、周囲の住宅化が進んでいるからこそ、その中で、おもわず心をなごませ、癒やしてくれるようなオアシス的な位置づけ、「日本のふるさと」的な雰囲気、をますます強めてるようなところがあって、心からうれしくなった。



 岩倉山 光蝕寺


 バスを降りたとたん、懐かしいポストが迎えてくれた。光蝕寺の入り口。
 遠い昔にタイムスリップしてしまったかのような錯覚にとらわれる。

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 滑川を越えて続く光蝕寺への道。
 それでも、わたしが子どもの頃は、(いつのことだ?)
 この道の両側はほとんど畑だった。

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 石仏がびっしりと並ぶ光蝕寺境内。
 
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 本堂。この建物も、以前は藁屋根だった。
 梅がほころび始めていて、実に清々しい。
 名高い頬焼阿弥陀も、本堂内にいらっしゃいますが、まとまった人数で予約しないと、拝観不可

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 まるで民話か童謡の舞台のような境内に、柔らかな冬の陽の光が差し込む。

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 奥の院の光触寺の記事。こちら



 一度、金沢街道に戻って道を渡り、交通の多い金沢街道を避け、小路に入り込んで明王院に向かう。



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 五大堂・明王院 (飯盛山寛喜寺)


 * 明王院は、基本的に、極楽寺と同じく、境内撮影禁止です。
   ここにのせた写真は、境内に入る前に冠木門の外から、あるいは生垣の外の小道を散策しながら、
   心をこめて撮ったものですが、
   もし、問題があれば、すぐに削除いたします。



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 「4代」将軍、藤原(九条)頼経の創建。

 「3代」以外とは言え、鎌倉将軍が直接創建した寺院として、鎌倉時代は特別な格式と規模を誇り、
 五大明王をそれぞれ独立した仏堂に祀る、という、前代未聞の大伽藍を備えた、
 五山を除けば、あの極楽寺と並ぶ鎌倉有数の巨大寺院だった。

 それが、今や、鎌倉でももっともこじんまりとしたお寺。
 しかし、あえて、このお寺を、鎌倉一の名刹、最も鎌倉らしいお寺の一つ、と呼びたいと思う。


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 すでに陽はだいぶ傾いているものの、穏やかな小春日和。
 満開の梅の香りが漂う境内には、やわらかな光が満ち溢れている。

 見事なしだれ梅をはじめとする、今や満開と咲き誇るたくさんの梅の木、
 その他、よく手入れされたたくさんの種類の植木や草木、庭石、
 ところどころに置かれたかわいい藁ぼっこ、質素な冠木門に活けられた清楚なスイセンの花などの、思わず心和む飾り、
 その他清楚で美しい二つの茅葺屋根の建物、鎌倉の寺院ではおなじみの背後の切り立った崖、やぐら、
 そして本堂の背後に聳え立つ銀杏の巨樹、

 どちらの方向からどのように見ても、それらが複雑に重なり合い、引き立てあって、見事な一幅の絵のような風景となる。
 それらのまったく好ましいものたちが渾然一体となって、一つの小宇宙、別世界を形成していて、日の光、空気までがちがって感じられる。

 耳が痛くなるような静寂。
 何種類もの鳥の声、風の音が、時折、どこからか響いてくる。
 桃源郷とは、このような地のことを言うのだろうか。

 時々、突然近所の方がお参りに現われて、現実に引き戻される。


▽ 冠木門に活けられたスイセン。

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▽ 枝垂れ梅と藁ぼっちの松竹梅の飾り。
  (写真がとれないので、スケッチしたのをもとに描きました)
 
 よく見る梅の花は、花びらが5枚くらいだが、この梅は、左上のイラストみたいに花びらが多く、しかも乙女椿みたいに、まるで陶器のようにくっきりと、しかも整然と並んでいる。

 梅の木の左下にあるちょこんとしたものは、松竹梅をかたどった、おめでたい藁ぼっち。
 一、二月の間、置かれている

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 美しい庭のところどころにさりげなく置かれていて、思わず微笑ましくなる。

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 実はこのお寺、すばらしいのはその風情、佇まいだけではない。

 さきほどの光蝕寺の本尊、重文・頬焼け阿弥陀尊はあまりにも有名だが、こちらの明王院も、なかなかすごい。
 小さくて簡素な、まったく何気ないようなその本堂に祀られている本尊、もちろん不動明王だが、
 この仏像、実は、冒頭の頼朝ゆかりの運慶仏にも決して負けない来歴を持った、鎌倉で最も格式高い名仏像でもあるのだ。

 この不動明王像、何と、頼経創建時の五大堂本尊そのものであると想定され、
 だとすると、宋風仏のパイオニアとして名高い定慶(あの興福寺東金堂の、運慶の兄弟弟子・定慶ではなく、運慶の次の世代の、千本釈迦堂の六観音の肥後定慶の方)による作品である可能性が高い、ということになる。

 鎌倉は武士の都だが、鎌倉将軍によって直接つくられた仏像は何と他には一つも残されておらず、
 また、鎌倉仏の代名詞、運慶・快慶以下、慶派の手によることが確実とされている仏像も(寺伝等の伝承は置いておいて)驚くほど少ない。
 そういう意味でも、あまたの鎌倉仏の中でも飛びぬけて貴重な仏像
 鎌倉仏と言った場合、北条政子によると推定される寿福寺(もと八幡宮寺)の薬師如来とともに、真っ先にあげられるべき仏像である。

 わたしはまだ見たことが無いのだが、
 写真等で見る限り、ほぼ等身大のおおぶりの見事な像で、ダイナミックかつエキゾチック。
 しかも全体にみなぎる品格にも欠けていない。

 普段は本堂の奥深く大切に安置され、拝観できないが、毎月28日の縁日にはご開帳される
 鎌倉で必ず見てみたい仏像ナンバー1。


 言うまでもなく藤原頼経は、源家将軍を滅ぼした北条得宗家等が都から連れてきた名前だけの摂家将軍(おじゃる将軍)だが、きちんとした頼朝の血縁でもある。(おばあちゃんのお母さんが、頼朝と兄妹。)
 何と2歳!でおどろおどろしい坂東武者が闊歩する鎌倉に連れてこられ、以降、27歳で京都に追い返されるまで鎌倉にいた。
 成人してあれこれ口を出すようになってきたので、ほとんど「クビ」状態。
 まあ、ホントに首を切られなくてまだよかったわけだが、そうしたことを考えると、
 なぜか得宗家側による記録にはまったく記載が無い大仏建立にも、何らかの係わりがあった可能性も?
(頼経が鎌倉を去る数年前に、現在の大仏の前進である木造大仏および大仏殿が完成している)
 このあたり、歴史ミステリーのロマンにあふれていて、想像力をかきたてられるが、
 いずれにしても、この明王院は、「おじゃる」頼経が鎌倉に残した最大の遺産と言えるかもしれない。

 それにしても、「頼経」とは、すごい名前。
 鎌倉でつけられた名前だろうから、権威付けということかもしれないが、だとすると、義経もこの頃から意外と人気があった?


▽ ご朱印を頂く際、境内でとれた梅で作ったという自家製梅干も購入。
  左、袋に入ってると、どう見ても、お守りにしか見えない?
  右、ラベルも手書き。感動。

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 奥の院の明王院の記事。こちら



 八幡宮に立ち寄り、昨年倒壊してしまった大銀杏の枝からつくられたお守り、
 「大銀杏 木霊」をゲット。

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 帰り際、いつものとおり、小町通り・イワタコーヒーで休憩。
 ジョンが座ったという?あこがれのサンルーム席に初めて座れた。

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 ☆ 「武家の古都・鎌倉を世界遺産へ」を応援します。 ☆


 * リンクした鎌倉市の公式HPでは、
   記事でちょっと触れた二階堂永福寺の復元画像(もちろん浄土式庭園付)がご覧になれます。



 ↓地元の生徒たちが描いたオリジナルポスター。
  (伝)頼朝公の絵がうまい!
  右の流鏑馬も背景の配置も含め躍動感満点だし、青い影のような色使いが幻想的で見事。

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そのほかの「記事目次」

「全体記事目次」

カンタータ日記・奥の院

浅田真央さん情報・最新版

宮沢賢治記事目次

カンタータ日記・大阪モダン建築図鑑

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この記事へのコメント

たこすけ
2011年03月05日 12:27
>ジョンが座ったという?あこがれのサンルーム席に初めて座れた。

お~、おめでとうございます。
写真は、席に座ったときの視線ということですか?

(すいません、こんなところだけに食いついて(笑))
2011年03月06日 02:32
> すいません、こんなところだけに食いついて(笑)

 けっこうこれが一番書きたかったことだったりします。(笑)
 ジョン兄さんが実際この中のどこの場所に座ったかは知りませんが、これまでサンルームはいつも満員だったので、ラッキーでした。
 名物のホットケーキはわたしたちの直前で売り切れてしまいましたが。

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