偉大なる「ファンタジアオーケストラ」復活~ネゼ=セガン&フィラデルフィア管+チャイコフスキーの想い出

 ついに聴きました。ネゼ=セガン指揮、フィラデルフィア管弦楽団!



 6月2日(月)


 ネゼ=セガン&フィラデルフィア管弦楽団来日公演

 チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.35p.35
 チャイコフスキー 交響曲第6番ロ短調 「悲愴」 op.74


  ヤニック・ネゼ=セガン指揮、Vn、諏訪内晶子

  @ サントリーホール


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 オール・チャイコフスキー・プログラム。


 前半、ヴァイオリン協奏曲


 諏訪内さん、以前よりもぐっとスケールが増していて、堂々としたまごうことなき大家の演奏。
 高音等の凛とした美しさも相変わらず。

 これまで聴いたことが無いくらいの万雷の大拍手。人気があるのだ。熱狂的な興奮に包まれたすり鉢状のホールの中央にまっすぐと立つ姿は、さながら女王のよう。
 まずはこのVnを聴くことができただけでもあまり好きでないサントリーホールまでやってきた価値がある。

 しかし、この演奏の真の立役者は、他ならぬネゼ=セガン。
 と言っても、決してネゼ=セガンが主導権を握って音楽をどんどん勝手につくり上げたわけではない。
 諏訪内さんの演奏を間近で受け止め、それを最大限尊重しつつ、瞬間瞬間それにインプロビゼーションしながら、どんどんあおり、乗せて行って、いつの間にか、結局は自分のペース、熱い大きな渦の中に巻き込んでしまう。
 諏訪内さん、カデンツァ等と、オケと絡んで盛り上がる部分とでは、まったく音色等が異なっていた。
 そうとうハメをはずしていたのでは。
 真の協奏曲「伴奏」を観た。


 舞台側面、指揮台のすぐ斜め前の席。

 従って、諏訪内さん、演奏中は一度も顔が見えず。がっくり。

 そのかわり、幸運にも、ネゼ=セガンの指揮する姿を、ばっちりと最初から終わりまで「鑑賞」することができた。


 ネゼ=セガン、まずびっくりしてしまったのは、そのものすごい身体能力。
 その指揮姿は、正に、舞踏そのもの。
 後でプログラムを見たら、ダンサーになりたかったそうで、今も、専属トレーナーにエクササイズを監修してもらい、たまにツアーにも同行してもらってるとのこと。

 こんなに軽々と踊って飛び跳ねる指揮者はこれまで観たことが無い。まるで、アスリート。
 きらきらと輝く瞳。エネルギッシュだが柔らかな物腰。いろいろな意味で、男性フィギュアスケーターを思わせる。
 実際、「音楽を体で表現する」ことに関して、この人、フィギュアの演技の参考になるのでは。もっともこの人の場合、音楽に合わせるのではなくて、逆に、表情、体の動きから音楽がほとばしるのだ。
 つまりは、表情、体の動き、すべてが音楽的。
 
 指揮棒の持ち替えプレイ?にも驚かされた。


 そして、初めて生で聴く、フィラデルフィア管弦楽団。

 かつてはフィラデルフィア・サウンドと謳われたこのオーケストラ、華麗な音色はそのままに、いろいろな意味でアメリカらしい、エンターティンメントなオケになっていた。

 細事に全くこだわらない?ドライブ感がすさまじい。精神においてはほとんどジャズみたいな瞬間が続出。


 特に、このコンビのそんな特性が炸裂したのが、後半の「悲愴」

 その炎のように燃え盛るライブ魂を目の当たりにして、協奏曲が、諏訪内さんとの文字通り「協奏」だったことが、とてもよくわかった。

 ネゼ=セガンもあおりにあおり、テンポ等は、極限的とも言える次元にまで幾度も突入、空中分解寸前になりながらも、それを次々と切り抜けてゆくスリル。楽団員の演奏ポーズも見事に決まっている。

 指揮、演奏ともに、観ているだけで、本当に楽しい。
 こんな、映画やマンガに登場するようなオケが、本当に存在するとは、正直心から驚かされた。

 とは言え、シリアスで感動的な部分は、もちろん、これ以上ないくらい感動的。
 音楽的な密度は、ぎっしりとつまっていて、圧倒されてしまった。

 第1楽章展開部と再現部が混ざったような大クライマックス、小柄なネゼ=セガンが、文字通り悲愴な苦悩、何の苦悩なんだかわけがわからないが、とんでもない苦悩を一身に背負ってのたうちまわる巨人のように見えた!

 第2楽章、5拍子のワルツは、憂愁の極みで、もの悲しいジャズのよう。

 第3楽章の行進曲は、ネゼ=セガン&フィラデルフィア管節大爆発。
 そして、音楽が音楽として成立するぎりぎりの勢いで疾走&加速を続けていた音塊が、最後の輝かしい和音に到達した瞬間、その和音がいよいよこれから残響自慢のホールいっぱいに響き渡るぞ、という時に、ネゼ=セガン、すさまじいうなり声をあげ、そのまま第4楽章の始めの悲しげな音になだれ込んでいくというびっくり演出!
 休みなく次の楽章に突入、といのはたまにあるが、ほとんど音をつなげて飛び込んでゆく、というのは初めて聴いた。


 アンコールの、エフゲニー・オネーギンからのポロネーズもよかった。
 川合良一さんやヘンゲルブロック一流の、メインに決して負けない、力の限りの渾身のアンコールを彷彿とさせた。舞曲調で、無条件に楽しいところも、、共通。


 こんな演奏だから、終演後も、ほとんどの人がみんな笑顔で、「楽しかったねえ」とか「びっくりしたねえ」と口々に言い合っていた。だいたいこのようなエンターティンメントの前で、小難しいことを言うのは無粋というもの。
 すぐ前を歩いていたご婦人の「この人、楽団のみんなに愛されているのねえ」という感想には、思わずにんまりとしてしまいました。


 いずれにしても、ほんとうに、ものすごく楽しかった。音楽を聴く喜びを全身で体験することができた。

 例えば、ミッキーマウスが指揮するディズニーの夢のオーケストラを聴いているような感覚、とでも言ったらいいだろうか。ネゼ=セガン自身も何だか、アニメっぽいし。もちろん、どちらも、思いっきりいい意味で!

 そうなると、自然に浮かび上がってくるのが、そう、あの名作、「ファンタジア」!
 あの映画でストコフスキーが指揮したオケこそ、他ならぬ、このフィラデルフィア管弦楽団だった。

 究極の原点回帰。古き良き夢の時代の再現。

 思えば、ネゼ=セガンがフィラデルフィア管の音楽監督に就任した後、このコンビで初めてリリースしたアルバムは、「春の祭典」とバッハのオルガン曲の編曲のカップリングという、今後のこのコンビの目指す目標、方向性を、これ以上ないくらい高らかに宣言する内容のものだった。
 そして、今回の来日演奏会を聴く限り、彼らが確実にその目標に向かってひた走っているのがわかり、たまらなくうれしくなった。

 あの偉大なるねずみオーケストラが、現実世界に復活しようとしている!



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 ・・・・以上、思いつくままに書いてきましたが、

 チャイコフスキーの白鳥の歌、一般的には、絶望に満ちた、人生への告別の歌などと言われることの多い「悲愴」を聴いて、楽しい、楽しい、と連発するとは何事?と思われる方もいらっしゃると思うので、

 ちょっとだけ、この交響曲の大名曲についても。

 チャイコフスキー、やる気満々、元気いっぱい。しかも、今や脂が乗りきって、作曲家としてピークを迎えつつある。
 その熟練の作曲技法とあふれる創作力のすべてを注ぎ込んだ、正に生涯の最高傑作と呼ぶにふさわしい作品が、この曲だと思う。
 確かに始めと終わりはいかには「悲愴」っぽいかもしれないが、どちらかというとそれは部分的な面に過ぎず、全体的には、まるで万華鏡のようにありとあらゆる要素を兼ね備えた、これまでの数々のとびっきり楽しいバレエ曲や管絃楽曲の延長上にあって、それを集大成したような、名曲中の名曲だと思う。
 チャイコフスキー、もしほんとうに死ぬほどの絶望の中でこの曲を書いたのだとしても、それまでの楽しかったこと、悲しかったこと、そして美しかったこと、すべてを思い出して、それらの一切を音楽にたたきこんだのではないか。
 その中においては、「悲愴」なところも、どこか客観的。まるで、第一級、超一流の劇場音楽みたい。
 あるいは、深刻に書いてもこのような曲になってしまうところ自体が、チャイコフスキーの悩みだった?
 いずれにしても、そんなこの曲の特性が、ネゼ=セガン&フィラデルフィアの目指すところとぴったり一致。彼らが十八番としている所以だろう。


 このチャイコフスキーの「悲愴」、実は、初めて好きになったクラシックの曲の一つで、わたしにとっては思い出の曲。
 わたしが生まれて初めて買ったクラシックの「LP」は、以前書いたように、ブルックナー3番。(ベーム指揮)
 その次が、バーンスタイン&ニューヨークフィルの「悲愴」だった。
 近所の駅前の小さなレコード店に、クラシックはCBSソニーの廉価盤シリーズだけ揃っていて、その中の一枚だった。
 B面の余白にくるみ割り人形組曲が収められたこのLP、ポップス何十曲分にも相当するかのような分量の極上の美しいメロディがぎっしりとつまっていて、ドラマティックな要素、ファンタジックな要素にもことかかず、ブルックナー以上に夢中になりました。それこそすりきれるほどくりかえし聴いて、何度か買い換えたものだ。

 曲をすっかり覚えてしまうと、他の演奏も聴きたくなる。初めて、クラシックの醍醐味と言われる聴き比べの楽しさを知った曲でもある。
 その後、評判の良いカラヤン盤、ムラヴィンスキー盤、フリッチャイ盤などを次々と聴いた。
 少し前の時代の、フルトヴェングラー、トスカニーニなどを聴いたのも、最初は「悲愴」からだった。評論家の文章を夢中になって読み、それにそそのかされて?カスミがかかったような音のメンゲルベルグの演奏まで聴いた。
 そして、いつしか、わたしなりの理想の「悲愴」を追い求め続けるようになっていた。
 しかし、この曲に関しては、上記したような曲の特性ゆえか、始めになれ親しんだ演奏ゆえか、なぜかはわからないけれど、結局は、音色がすっきりとしていて明るく、それでいて劇的なところはとことん劇的な、バーンスタインやオーマンディ、ライナーなど、アメリカのオケの演奏が一番しっくりしていたように思う。

 その後、さすがに「悲愴」への思い入れもそれほど無くなってしまったが、やはり話題の演奏がリリースされたりすると、気にはなったものだ。

 そして、ここに来て、ついに真の理想とも言える演奏に巡り合ったような気がする。
 今となっては、まあ、それほど感激するようなことではないけれど。
 これは、正真正銘、あの頃追い求め続けた、理想の演奏だと思う。



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 最後に、

 こうなってくると、ネゼ=セガンのブルッククナーについても、ちょこっと触れておかねばならないだろう。


 プログラムのインタビューで、ネゼ=セガンは、今回取り上げる作曲家以外の好きな作曲家として、ブルックナーを上げているが、わたしとネゼ=セガンとの出会いも、ブルックナーのCDだった。
 その、あらゆる意味でほとんど理想的とも言える、あまりにも見事なネゼ=セガンのブルックナーについては、これまでもことあるごとに書いてきたし、星の数ほどあるブルックナーのCDの中で、今でも常に身近に置いて、日常的に大切に聴いているのは、ネゼ=セガンの7番から9番までのCDに他ならない。
 誰にでも自信を持っておすすめできる、各曲の決定盤とも言える名盤だと思う。

 ただ、ここで少し疑問が生じるのだ。

 この日聴いたエンターティンメントの極致とも言える演奏と、これらのCDに納められた、どこまでものびのびとしていて大らか、ただひたすらやさしくて、素朴なまでに純真であたたかいブルックナー演奏とが、どうしても一致しないのだ。両者の間には、驚くほど大きな乖離が見られるような気がする。しかも、決してどちらかに優劣があるわけでなく、どちらもとびぬけて魅力的なのだから、ますますわけがわからない。
 どちらがネゼ=セガンの実像なのだろう。

 オケや演奏時期が異なる、ということももちろんあるだろう。実際最新盤の6番などは、エンターティンメント性がぐぐぐっと高まった内容になっている。(それはそれですばらしい)

 でも、今回の演奏会のプログラムにのせられたインタビューを読んで、その謎が少しだけ解けたような気がする。

 「無人島に持ってゆきたいCD」として、ネゼ=セガンは、自分の師匠でもあるジュリーニ指揮のブルックナーのCDを真っ先にあげているのだ。
 最も影響を受けた人としても、ジュリーニをあげている。
 彼は、心から憧れる人が得意としていた、心から憧れる音楽を、誠心誠意、心のありったけを込めて演奏したのではないか。
 彼のエンターティンメント性の根幹には、デリケートすぎるほどのやさしさ、純真さがあるような気がするのだが、その部分だけを100パーセントありのままにさらけ出したのが、このブルックナー演奏なのでは。

 そして現在、フィラデルフィア管のシェフとしての彼は、子供のころに強烈なインパクトを受け、自信の音楽の原体験にもなった、ストコフスキーやオーマンディのフィラデルフィアサウンドを目指している。どちらも彼にとっては真実なのだ。

 ますます、現在のフィラデルフィア管とのブルックナーも聴きたくなってきた。


 ネゼ=セガンの「無人島に持っていきたいCD」、ブルックナー以外では・・・・?


 始めは、その、オーマンディ&フィラデルフィア管の「悲愴」。
 やはり、ジュリーニのブルックナー、そして、オーマンンディ、というか、フィラデルフィアのチャイコフスキー、この両極端とも言える2者が、彼の指揮の原点なのだ。

 それから、器楽曲2組。

 一組めは、何と、バッハ。ケラスの無伴奏。実に興味深い。

 そして最後に、ショパン、アラウのノクターン。思った通り、フィギュアスケート系の人?
 ますます親しみがわいてきた。 



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